函館ハリストス正教会

聖歌と信仰生活

私たちは、「聖師父の教え」と聞くと、教義に関すること、聖書の意味を解き明かす説教や、奉神礼の祈祷文などを思い浮かべますが、聖歌の分野においても、聖師父の教えがたくさん遺されています。というよりも、正教聖歌とは、まさに神・聖神°の働きを受けた「聖師父の教え」そのものなのです。

正教会聖歌を確立した初期の代表的な聖師父の一人にアレクサンドリヤの聖クリメントという人がいます。聖歌における「歌と生き方の同一性」ということを詳しく説いた聖師父です。彼は次のように言っています。

「正しい聖歌は、義なる生き方の結果であり、義なる生き方は正しい聖歌の条件である」。
正教聖歌の基本概念は、「天の宝座の前で神を讃栄している神使の歌声を表すこと」であり、その目的は「(たましい)を神の世界との調和へ導くこと」であると教会は教えています。

つまりこれは(=前記下線部は)、聖歌者がその歌声によって行わなければならない課題です。

このような霊的な“仕事”を行なうことのできる歌声は、どのようにしたら自分の内に作ることができるのでしょうか。前述の聖クリメントは、「義なる生き方」がその条件であると教えています。
ニッサの聖グリゴリイは、同じテーマについて次のように表現しています。
「神は、あなたの信仰生活が詠唱(=聖歌)となるように命じているのである。その詠唱とは、この世の音(=思い)から成り立っているのではなく、天上から得た潔い明らかな響きであるべきなだ。あなたの詠唱を聴く人にあなたは然るべき信仰生活の範を与えているのである」。

この言葉は、正教会が神を讃美するために呼吸(いき)の通わない楽器を使うのではなく、人間の呼吸(いき)によって行なうことを教えている理由の本質を表しています。聖書に書かれているように、人間は神の生ける宮ですから、神を讃美するのに一番相応しい楽器、それは人間です。人間の生き方です。
また、聖金口イオアンは同じテーマについて次のように表現しています。
「私たち自身が神・聖神°の笛となり、キタラ(弦楽器)となろう。楽器を調律するように、神・聖神°によって自分の霊を調律しよう」。
私たちは音叉によって楽器を調律することを知っていますが、正しい聖歌が湧き出ずる霊は、神・聖神°によって調律されるのだと聖金口イオアンは言っています。音叉は正しい周波数を持っていて、同じ周波数で響く音と共鳴しますが、私たちの霊についても同じことが言えるのです。神・聖神°によって正しく調律された霊は、主・神の教えに共鳴するということです。そして聖歌を歌う者にとってこの“調律”は必要不可欠だと聖師父たちは教えています。

聖歌者が直面するもう一つの課題は、聖歌が聞く人の霊を神の世界との調和に導くという働きが行なわれる時、そこに「言葉」と「音楽」という要素が媒体として存在するという現実です。
聖師父ではありませんが、N.V.ロッスキイという学者は「聖歌の神学的基礎」という論文の中で、聖歌の「言葉」と「音楽」の関係について面白い表現をしています。
〔奉神礼における全ての芸術的要素は福音の伝道という役割を担うものである。聖歌の場合、神を「讃め揚げる」時、私たちは「言葉によって讃め」、「音楽によって揚げる」のである。この意味において言葉と音楽は一体でなければならない〕。
教会建築、イコン、聖歌など、一般に教会芸術と呼ばれるものには、その役割において一つの大きな共通点があります。ロッスキイは、それを「福音の伝道」と言っていますが、別な言い方をすれば、それは人間的な喜怒哀楽や感情を表現することが目的なのではない芸術、奉神礼という祈りの場に奉仕することを最上の課題とする芸術であると言えます。
この意味において、ロッスキイが、「言葉」に対して「音楽」はその上でも下でもなく、全く同じ平等な位置になくてはならないと述べているのは、正しい指摘であると言えます。
私たちが文字として見ている福音の言葉 ―― これは、より本質的な〔言葉〕、即ち人体をとられた〔神・言葉〕の片鱗に過ぎず、私たちが音符として見ている音楽 ―― これは神使の歌の片鱗に過ぎないという事実を前にして、「言葉」と「音楽」のバランスをとらなければならない聖歌者に対し、ロッスキイは、極めて明確に為すべきことを指摘しています。
「聖歌を作曲する者にしても、歌う者にしても、聖歌に携わる者は“神学者”でなければならない。即ち、奉神礼に仕えるという役割を担っている以上、ともすれば自画自賛の温床となる「自我の芸術観」は制するべきである。このようにしてはじめて、神・聖神°の内に真の自由を得ることができる」。

                  (スヴェトラーナ 山崎 ひとみ 記)

〔函館ハリストス正教会報第13号(2010年8月・9月号)掲載記事より〕

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