函館ハリストス正教会

『函館ハリストス正教会史』

このページでは『函館ハリストス正教会史 ― 亜使徒日本の大主教聖ニコライ渡来150年記念』(函館ハリストス正教会史編集委員会、2011年刊行)よりテキスト部分を抜粋して掲載しています。

 

『函館ハリストス正教会史』目次

「函館ハリストス正教会史」刊行に寄せて   仙台の主教セラフィム座下

第一部 函館ハリストス正教会のあゆみ

第一章 安政から明治

一 箱館開港

二 初代ロシア領事ゴシケーヴィチの着任と初代教会

三 聖ニコライの着任

四 ロシア病院と新島七五三太(襄)

五 最初の洗礼機密

六 誦経者サルトフ/ロシア人墓地/ゴシケーヴィチ領事の帰国

七 仙台藩士の来函/聖ニコライの一時帰国

八 宣教団長聖ニコライによる福音伝道開始

九 修道司祭アナトリイ(チハイ)の時代 1872年(明治5)~1879年(明治12)

一〇 司祭ティト小松韜蔵の時代 1882(明治15)~1891年(明治24)

一一 司祭ペトル山懸金五郎の時代 1891年(明治24)~1900年(明治33)

一二 臨時管轄司祭 ペトル仮野成章の時代 1900年(明治33)10月~1901年(明治34)9月

一三 司祭アンドレイ目時金吾の時代 1901年(明治34)~1912年(明治45)

第二章 大正から昭和(終戦まで)

一 司祭モイセイ白岩徳太郎の時代 1912年(明治45)~1941年(昭和16)

二 司祭イアコフ藤平新太郎の時代 1942年(昭和17)2月~1946年(昭和21)1月

第三章 戦後から新たな時代へ

一 司祭ニキタ近藤昇太郎の時代 1947年(昭和22)~1959年(昭和34)

二 司祭イアコフ出原惣太郎の時代 1959年(昭和34)~1961年(昭和36)6月

三 司祭イオアン厨川勇の時代 1961年(昭和36)10月~1980年(昭和55)6月

四 臨時管轄司祭ロマン大川満の時代 1980年(昭和55)~1981年(昭和56)

五 司祭ニコライ築茂三郎の時代 1981年(昭和56)~1991年(平成3)

六 司祭アレキセイ松平康博の時代 1991年(平成3)~1994年(平成6)

七 司祭アントニイ石動昌夫の時代 1994年(平成6年)~1995年(平成7)4月

八 司祭イオフ馬場登の時代 1995年(平成7)11月~2008年(平成20)

九 新たな時代に向かって

第二部 函館ハリストス正教会史に寄せて

渡来150年を祝して

聖ニコライ渡来150年を迎えるに当たって

函館ハリストス正教会史発刊に寄せて

私と教会の出会い

聖堂での祈りの40年

聖堂公開への道

感謝

ハリストス正教会との出逢い

父から受け継いだ信仰

教会の思い出から

第三部 函館ハリストス正教会の諸相

重要文化財としての復活聖堂

函館ハリストス正教会のイコンに見る「聖ニコライのイコン観」

函館とハリストス正教会 ― 架け橋の人々 ―

在箱館初代ロシア領事「ゴシケーヴィチ」

日本人最初の司祭「澤邉琢磨」

プラントハンター「須川長之助」

ロシア語学校の設立と函館ハリストス正教会

露探

旧教徒と白系ロシア人

函館ハリストス正教会ゆかりの人々

年表 参考・引用文献 写真・図版一覧

函館ハリストス正教会関係年表

函館ハリストス正教会復活聖堂聖鐘関係年表

参考・引用文献

写真・図版一覧

あとがき   編集委員長 司祭ニコライ・ドミートリエフ

 

第一部 函館ハリストス正教会のあゆみ

第一章 安政から明治

一 箱館開港

 §ロシア史の中でキエフが「ロシアの町々の母」と呼ばれているのになぞらえていえば、函館のハリストス正教会はまさに、「日本の正教会の母」と呼ばれるにふさわしい§

 函館は、日本で最初の正教会の聖堂が建てられた街である。

 なぜ、函館がそのような場所となったのか。それは幕末の日本をとりまく諸外国の情勢と無縁ではない。当時、最初に箱館に開港を求めてきたのはアメリカであった。アメリカは1820年(文政3)頃、カムチャッカから千島列島にかけて、鯨がたくさんとれる漁場を発見していた。津軽海峡を通過するアメリカの捕鯨船にとって、箱館は恰好の停泊地であった。

 1854年(嘉永7)、幕府はアメリカとの間に日米和親条約を締結し、アメリカの船舶への薪水給与のため、下田と箱館を開港することになる。条約によれば開港は翌年からであったが、アメリカ側全権であったペリー(東インド艦隊司令長官)は、神奈川で和親条約を締結すると早速同年4月、ポーハタン号に乗船して箱館に入港した。姿見坂下において、アメリカの船舶への便宜、宿舎、乗組員の遊歩の自由など箱館での対応を協議したその場所には、今日、「ペリー会見所跡」の標柱が建っている。

 ペリー来航の後、同年秋には、ロシアの使節プチャーチンがディアナ号に乗船して箱館に来航した。プチャーチンを全権とするロシア帝国は1855年2月7日、伊豆の下田で幕府と日露和親条約を締結する。この条約で両国は、ロシア船の補給のために箱館、下田、長崎を開港することと、ロシア領事を日本に駐在させることを取り決めている。

 ロシアが箱館開港を望んだ理由は、ロシア艦隊がロシア極東海域における海上輸送の円滑化をはかるために日本の不凍港を必要としており、箱館は食糧や石炭を補給し、休養をとるために不可欠の寄港地だったからである。当時、ロシア極東海域では、ニコラエフスクが主要港であったが、冬期間はサハリンとの間の間宮海峡が凍結して使用できなかった。ウラジオストックには、この頃まだ街が形成されておらず、単なる湾であった。

 1858年(安政5)、幕府は列強五ヵ国(米、英、仏、露、蘭)と修好通商条約(安政の五か国条約)を締結し、箱館、新潟、横浜、神戸、長崎を貿易港として開港することとなった。箱館の開港は翌1859年(安政6)6月2日(新暦7月1日)。現在、7月1日は函館港の「開港記念日」となっている。

 貿易港の開港に先立ち、先の日露和親条約に依り、1858年(安政5)11月には、初代ロシア領事ゴシュケヴィッチが箱館に来航し、実行寺に仮止宿。1859年8月にイギリス領事ホジソンが初代総領事オールコックと共に箱館にやってきて、称名寺に仮止宿。ゴシュケヴィッチより一年早い1857年(安政4)にアメリカの貿易事務官ライス(1865年1月、正式に箱館駐在の初代アメリカ領事となる)が浄玄寺に仮止宿することとなる。

 称名寺、実行寺、浄玄寺は、1879年(明治12)の大火で焼失するまで、現在のほぼ弥生小学校の敷地辺りに門を並べて建っていた。現在の場所は大火後移転したもの。

 このようにして、箱館は外国に門戸を開くこととなり、その後市内地に居留する外国人の数が増えるにつれて、外国の衣食住などの文化、宗教、医療、技術などがもたらされ、先進的な活気のある街となっていく。

 

二 初代ロシア領事ゴシケーヴィチの着任と初代教会

  §「ロシアの風」が箱館の町に吹き始めた§

 

 1858年(安政5)、箱館に着任し、1865年(慶応元)、箱館を離れるまでの七年間を初代ロシア領事として勤めたゴシュケヴィッチとは、どのような人物だったのだろうか。

 箱館に着任するまでの略歴は次の通りである。

ゴシュケヴィッチ(イオシフ・アントノヴィッチ)は1814年、ミンスク郊外(現在のベラルーシ共和国ゴメリ州)で司祭の家庭に生まれる。ミンスク神学セミナリーを優秀な成績で卒業し、サンクトペテルブルク神学アカデミーに入学。1839年に卒業。卒論のテーマは「痛悔機密の歴史的考察」。1839年から1848年までロシア正教会中国宣教団に在籍。中国から帰国した後、1850年よりロシア外務省アジア局に勤務。1853年、パラーダ号で日本を訪れるプチャーチンの使節団通訳として来日。1855年、下田における日露和親条約締結に同席。1857年、皇帝の許可を得て日露辞典『和魯通言比考』を刊行(デミードフ賞を受賞)。一八五七年、皇帝の命により在日本ロシア帝国領事の辞令が出される。

 ゴシュケヴィッチ領事一行を乗せたロシア船ジギット号が箱館港に入港したのは、1858年(安政5)11月5日のことであった(露暦、10月24日)。一行は15名。ゴシュケヴィッチ領事、領事の家族、書記官オワンデル、医師アルブレヒト、医師の妻、修道司祭フィラレート、海軍武官ナジモフ大尉、下男4人、下女2人。当時15名という規模で領事館員を派遣してきたのはロシアだけで、「他国にはない充実したメンバー」と函館市史に記されている。しかし15名全員を実行寺に泊めるわけにはいかず、高龍寺にも分宿することとなった。

 この一行15名の中に見える「修道司祭フィラレート」とは、シベリヤ小艦隊所属の司祭で、1861年(文久元)春頃まで、在日本領事館付属聖堂のいわば臨時管轄司祭の立場で奉職している。実は、ゴシュケヴィッチが初代領事の辞令を受けた二ヵ月ほど後に、領事館付属聖堂の初代管轄司祭としてペテルブルクの宗務院から辞令を受けた長司祭ワシリイ・マホフは、領事一行と一緒に日本に出発することができなかった。つまり領事一行がペテルブルクを出発した時、一行の中に領事館付属聖堂管轄司祭の姿は無かったのである。ニコラエフスクまで来た時、日本を目前としたゴシュケヴィッチは、東シベリア沿海州軍務知事カザケヴィッチ海軍少将に、領事館附き司祭の件を相談したものと思われる。その答えとして、カザケヴィッチ海軍少将がゴシュケヴィッチ領事に宛てた書簡は次のようなものである。

 

 函館のロシア帝国領事へ

   九月一〇日付け第二六号による貴官からの文書に従って、私は直ちにコルヴェート・クリペール艦隊[シベリア小艦隊 ―― 筆者]で[ニコラエフスクに ―― 筆者]到着した修道司祭フィラレートに、アメリカ号に乗船して日本に出発し、在函館の我が国領事館付きとして、同領事館の司祭が任地に到着するまで残留するようにと命じた。以上、謹んで報告するものである

                          海軍少将 カザケーヴィッチ

                 (『函館・ロシア その交流の軌跡』清水恵著より引用)

 

 翌1859年(安政6)、実行寺境内地に三間×五間十五坪の「祭祠堂」と呼ばれる祈祷所が領事一行のために普請された。また同年、領事館付属聖堂の初代管轄司祭である長司祭ワシリイ・マホフがロシア船「アスコリド」号で着任した。同じ船で、長司祭ワシリイ・マホフの息子、イワン・マホフも箱館に来航した。イワン・マホフは外務省アジア局に勤務する九等文官であったが、父ワシリイ神父の箱館行きが決定した後、父を助ける誦経者(一説には堂役)として父の任地に派遣されることが決まった。1861年(文久元)に箱館で印行された子供用のロシア語の教科書「ロシヤノイロハ」を書いたのは、このイワン・マホフである。

 ゴシュケヴィッチ領事は、1859年7月19日付けの外務省アジア局への報告書の中に、ムラヴィヨフ・アムールスキー伯爵(東シベリヤ総督)の艦隊に乗って、領事館に着任を命じられたマホフ長司祭とその息子のマホフ九等文官が、6月11日(露暦)に箱館に到着したと書いている。

 ちなみにこの「アスコリド号」の航海士の一人が、この時、箱館で永眠しており、現在の船見町にある「ロシア人墓地」に埋葬された第一号の墓となっている。墓碑には「父と子と聖神の名によるアミン この碑の下に戦艦アスコリト号航海士 神の僕ゲオルギイー・ポリスケウイッチの遺体を葬る 1859年6月26日死去 行年35歳」とある。

  ゴシュケヴィッチ領事は、本国政府よりロシア領事館建設用地を探す際の条件を与えられていた。それは、市街地に位置し、然るべき快適さを備え、領事館の付属建物などを建設するために充分な広さがなければならないというものであった。一方、奉行所はロシア領事館建設用地として、当時は郊外であった現在の函館市役所近辺の地峡に土地を与えようとしていた。結局ゴシュケヴィッチが本国からの指示に適う候補地として自身で見定めた土地は上大工町、即ち現在の元町の函館ハリストス正教会の境内地であった。奉行所(現在の旧函館区公会堂の場所)から300メートルほどのところにあり、箱館港とその周辺の全景、さらには先の東の海まで見渡せる場所である。奉行所との根気強い交渉の結果、ゴシュケヴッチは初志を貫徹し、ここが日本で最初のロシア領事館の土地となり、日本で最初の正教会の聖堂が建てられた土地

 1860年(万延元)、現在の函館ハリストス正教会の境内地に、聖堂が移築され、領事館、司祭館、学校などが建てられた。初代聖堂は木造で、1863年(文久3)の聖ニコライの報告に依れば、縦横等しい長さの十字架の形をしており」、鐘楼があり、鐘楼には日本の鋳物工場で作られた大鐘が一つ、小鐘が四つあった。初代聖堂が在った場所は「明治境内図」を見ると、現在の聖堂の位置よりも右手奥になっており、現在の信徒会館よりもやや中央寄りに建てられていたことがわかる。この聖堂は主の復活を記憶して建てられた「復活聖堂」であった。「かつてこの国に存在していたけれども滅ぼされてしまったキリスト教がふたたびこの国に現れてきているという意味をこめて」ゴシュケヴィッチ領事がこの名を与えたのであった。

 聖堂の移築が完工したのが1860年(万延元)9月頃。同年10月には前述のフィラレート神父がこの聖堂で司祷している。

 

三 聖ニコライの着任

 §そうだ、自分が行くべきではないか、とわたしは心に決めました。その日の夕方の祈祷のときには、すでにわたしの心は日本に向かっていたのです§

 

 領事館付属聖堂初代管轄司祭ワシリイ・マホフは着任当時六十才を超える高齢で、心臓病の悪化により体調もすぐれず、既に着任した年の秋、宗務院宛てに解任の嘆願書を提出している。ワシリイ・マホフ神父は1860年(万延元)7月(一説に翌年の早い時期)に箱館を離れた。箱館の領事館付属聖堂は、新しい管轄司祭を必要とすることとなった。

 領事ゴシュケヴィッチはその経歴からも解るように、司祭の家庭に育ち、自らも高等神学教育を受けた人物であったので、職務は外交官であっても、日本での宣教の可能性を見極め、配慮することを忘れることはなかった。彼は領事館付属聖堂の管轄司祭として着任する人間に、日本での宣教師として相応しい人物であることを求めた。ゴシュケヴィッチは宗務院への手紙の中で、新しく着任する司祭は「神学大学の課程を卒えて、単に宗教的活動のみでなく、学問においても有能であり、さらにまたその日常の生活によって、日本人に対してのみならず当地に居留する外国人にも、わが国の聖職者について良い印象を与えることのできる、そのような人物」でなければならないと記した(引用部分は『宣教師ニコライと明治日本』中村健之介著より)。

 ゴシュケヴィッチの要請を受けて、宗務院は当時のロシア帝国内の全ての神学大学(神学アカデミー)に公募文を出した。ペテルブルク神学大学で公募に応じた者は十人から十二人であったという(長司祭ニコライ・ブラゴラズーモフの回想より)。ゴシュケヴィッチ領事の願いを聴き入れて主・神が日本へ遣わした人物、それが修道司祭ニコライ・カサートキン(一九七〇年、「亜使徒日本の大主教聖ニコライ」として列聖される。本章では以下「聖ニコライ」と記す)であった。

 1860年(万延元)8月、聖ニコライは日本へ向かって出発する。この旅の途にあって聖ニコライが何を思ったのか、後年1895年(明治28)7月8日の日記に次のように記されている。

 

 35年前、日本へ向かって進む旅の途中のことだった。シベリアのある場所で、左手は岡の斜面に緑の四角の畑が広がるすばらしい眺めのところだった。ふとこんな考えが浮かんだのを覚えている。人が教育を終えて世の中へ出て行くとき、その人の胸に幾つかの十字架をかけてやって、その後、その人がなすべき努めを果たすたびに、その十字架を一つずつ外してやる。そして、自分にかけられた期待を、神の助けのあるかぎり、果たしたというしるしに、何もかかっていないきれいな胸で墓に入る、という考えだ。そのほうが勲章を授けるよりも、少なくとも賢明ではあるだろう。私の考えはいまもあのときと少しも変わっていない。

「ニコライの中にこのような澄んだ、しかし激しい召使感があり、それが生涯消えなかったことは、かれの日記と生き方の全体が証明している」と中村健之介氏は、著書『宣教師ニコライと明治日本』の中で記している。

ニコラエフスクまで辿り着いた聖ニコライは、この地で越冬することとなる。『日本正教傳道誌』には「此越年こそ、これ実に主・神が師をここに留めて、彼をして其前途に於ける異邦宣教の希望を益々堅固ならしめ、其心を練磨せしむるの好機会なりしなれ」と記されている。それというのも、聖ニコライはこの地において異邦宣教の大先輩であるカムチャッカ、クリルィ及びアレウト教区の大主教インノケンティ(ヴェニアミノフ)に親しく接し、薫陶を受ける機会を得たのである。大主教インノケンティはアレウト語(アリューシャン語)とヤクート語に聖書を翻訳し、カムチャッカ、ヤクート、プリアムーリエ、北アメリカの諸地方の最初の主教となった人である。1868年にモスクワ及びコロムナの府主教となり、一八七九年に永眠。1977年、シベリヤ及びアメリカの使徒としてロシア正教会及びアメリカ正教会において列聖されている。聖ニコライ24歳、聖インノケンティ63歳の時の出会いであった。

  日本の隅々に至るまで主の福音を伝えようという希望を胸に、1861年(文久元)7月14日、聖ニコライはロシア船「アメリカ号」にて箱館港に入港する。

 聖ニコライの箱館時代は、遠からぬ未来において着手すべき日本伝道の準備期間であった。日本語を学び、広く和漢の書を読み、歴史・風俗、社会制度なども研究した。そして日本を知れば知るほど、伝道の希望は信念となり、その信念は益々深まっていくのであった。

 箱館に着いてからわずか三年程の間に読んだ書物の中に『古事記』、『日本書紀』、『日本外史』、『大伴金持忠孝図会』などの書名を見ると、聖ニコライの尋常ならぬ才能に驚嘆するのであるが、そこにはまた尋常ならぬ忍耐と努力があった。

 ニコラエフスクにおいて、聖ニコライに異邦伝道の手ほどきを授けた大主教インノケンティ(ヴェニアミノフ)は、翌1861年(文久元)9月、箱館に寄港し、聖ニコライとの再会を果たしているのだが、その折り、聖ニコライの机上にフランス語の書籍があるのを見てこう言った。

 「目下当地に余り役にも立たぬ此外国語の書籍は悉く皆放棄してしまって専心一意日本語研究に従事する様致すのが宜しい」。

 聖ニコライはこの言葉を深く心に刻み、後日、既にモスクワの府主教となっていたインノケンティ座下に次のように報告している。

 「その後、今日に至るまで数年間、日本語研究について種々工夫を凝らし一方ならぬ苦心をした次第です。日本語は世界各国の国語中、最も困難なるものであって、初めてこれを研究する外国人にとっては実に解し得べからざる謎同然です。しかし、恒久忍耐を以てすれば、いかなる困難も征服し得るものです」。

 また、一昼夜が百時間であったなら百時間全てを日本語研究に費やすであろうに、一昼夜が百時間でなくて残念だと書いている。さらにこの手紙の中で、聖ニコライは、漢文より福音書、使徒行実、使徒七公書、聖使徒パウェルの或書札、聖史提要、東教宗鑑、日誦経文を訳し、教会スラヴ語より啓蒙礼儀、洗礼式等を訳したことを報告している(1868 年〔明治元〕11 月4 日付の書簡)。

また、一昼夜が百時間であったなら百時間全てを日本語研究に費やすであろうに、一昼夜が百時間でなくて残念だと書いている。さらにこの手紙の中で、聖ニコライは、漢文より福音書、使徒行実、使徒七公書、聖使徒パウェルの或書札、聖史提要、東教宗鑑、日誦経文を訳し、教会スラヴ語より啓蒙礼儀、洗礼式等を訳したことを報告している(1868年〔明治元〕11月4日付の書簡)。

 また、日本人のためのロシア語教育にも携わり、短期間にして多くの成果を上げている。日本人のためのロシア語教育は、ロシア領事館が当初より積極的に支援していた。初代領事ゴシュケヴィッチの配慮により、イワン・マホフが箱館奉行配下の役人の子弟たちにロシア語を教えたのが始まりで、その頃は、役所で働くロシア語通訳の養成が主目的であった。イワン・マホフ帰国の後は、聖ニコライが学校の先生となった。1863年(文久3)には、聖ニコライの下にはロシア語を学ぶ年齢の様々な六人の日本人の子弟がいたという。ゴシュケヴィッチが1865 年(慶応元)に帰国した後も、後任の領事ビュッツォフが聖ニコライのロシア語の授業のために必要な教科書を外務省アジア局に無心するなど支援を続けている。また、1869年(明治2)に聖ニコライ自身が外務省アジア局に提出した報告書には、「露日会話集」を作成し、「ロシア文法」を日本語に翻訳し、さらに「露日辞書」の編纂を行なっていることが記されている。

 1868年(明治元)に聖ニコライが作成した「宣教規則」には「若き人を魯語を教へて魯西亜の宗学校に遣すべし、此の目当は学業出来の上、日本に帰り学校を建て、宗法と其他の学文を教ふ、、其外宗教の書籍を翻訳す、又別の若き者を魯西亜の医学校に遣し、医学成就の上帰て病院を建て救療し且学校を建て医学を取立る事」とある。この頃既に聖ニコライには将来現実のものとなる「翻訳局」が見えていたのであろう。

 

四 ロシア病院と新島襄

 ロシアが在日領事館のために派遣した15名の人員の中に司祭の他、医師が含まれていたのは前述した通りである。ロシアにとって、領事一行の中にいる司祭の存在意義が、決して自国領事館の敷地内だけを視野に入れたものではなかったのと同じように、医師も領事館員だけのためのものではなかった。ロシアは自国の医療技術をわけへだてなく当時の日本人に伝授し、その恩恵を分かち合おうとした。

 ゴシュケヴィッチは着任の翌年に、当時の亀田川万年橋附近に仮のロシア病院を開くも、1861年(文久元)に焼失。その後、領事館敷地に隣接して(現在の聖公会聖ヨハネ教会の土地)に1863年(文久3)、ロシア病院を建てる。この病院は1866年(慶応2)に焼失するまで多くの日本人の治療に当たった。

 「ロシア病院の開設によって日本人民への医療における恩恵は、言葉に言い尽せないほど数多くある。なかでもロシア病院の存在は、日本人による箱館医学所の設立や活動に大きな弾みとなったばかりか、それ以後、日本独自の医療に大変革をもあたらしたことは特記に値する」(「蝦夷地末期の箱館ロシア病院」 水島宣昭著より)。

 初代医師アルブレヒトから医学を学んだ日本人は深瀬洋春、永井玄栄、下山仙庵の三名。1874年(明治7)に頓死した誦経者サルトフの病理解剖の際、立会人となった深瀬鴻堂は、深瀬洋春の弟である。

 1864年(元治元)、日本の近代化とキリスト教研究のために先進諸国へ渡ろうと、その方法を模索していた新島襄が箱館にやってくる。箱館に着いた新島は紆余曲折の後、聖ニコライの前に姿を現す(同年5月3日)。そして6月15日に伝手あってアメリカ商船ベルリン号に乗り込み箱館を出帆するまでの間、ロシア領事館の敷地内に滞在し、聖ニコライの日本語の家庭教師を勤める傍ら、ロシア病院で眼の治療を受けている。ロシア病院について新島が観察し、記したところは次の通りである。

  この病院には診察室が一ヵ所、病室(四人部屋或いは七人部屋)が十二室、士官及びマドロスの部屋が各一室、患者が散歩しうる花園があり、当初入院するためには沖之口の役所に届けねばならなかったが、最近は直接医師に診てもらい、入院が決められるようになった。入院すると、ベッド、食卓、蒲団、襦袢、股引まで貸与され、三度の食事は病気の種類によって異なるが、共通の食物は、煎たる牛肉を細ニたたき、丸め、豚の油にて揚げたる物或いは鶏卵ソップ ―― 牛骨を十分の水にて煎じ、韮等を刻み入れ、其に僅かの塩を加へたる者なり ―― 等なり」。医師は朝七時に出勤して入院患者を回診し、後は外来患者を診察する。施薬は午後二時から四時まで。ロシア皇帝から経営維持費が全額支給されるので、乞食の如き貧なる者ニも病気仕第にて高価の薬を与へ、唯病気全快し其者の魯人を慕ふを望む斗なり。右様の手厚き取扱いなれど、一切謝金を要せ須、全く施しの為なり。

 

  新島には「函楯ニ於テニコライニ寄スルの書」と封筒に表書きされた書簡が残っている。聖ニコライ宛てに当時の心中を吐露したものであるが、渡そうとして結局は渡さなかったものと見られている。当時の日本の政治の乱れ、民衆の困窮した生活を憂い、その原因は人々が神の道を知らないからであるとし、無理やり富国強兵を唱えても欧羅巴先進諸国には敵わないのだから、先ずはキリスト教を学んで己を磨き、「独一真神の道」を知れば、国家の情勢は自ら整っていくであろうと書かれている。

 新島は5月24日に聖ニコライに密航の意図を打ち明けたが、思い留まるように説得される。6月14日、新島がロシア領事館を去る日、聖ニコライは留守で居なかった。新島は短い礼状を残してロシア領事館を後にした。

 

 5月15日、新島が既にベルリン号上で書いた日記には次にように記されている。

  「米利堅船ニ乗し箱館港を出帆す。但沢辺数馬富士屋卯之吉の周旋に依而し此之行を得たり。此二友骨に徹し忘るべからず」。

 ここに記されている「沢辺数馬」こそ、後に箱館において聖ニコライが洗礼した最初の日本人の一人であり、日本正教会の最初の司祭となったパウェル澤邊琢磨である。

 

五 最初の洗礼機密

 「私が当地へ着いてから四年経ってようやく神は、わたしに一人の日本人をお遣わしになった。…(中略)… 一年後、かれは一人の仲間を見出した。そしてさらに一年経たないうちに、かれらは三人めの同志を見出した」(聖ニコライの「箱館からの手紙」より/『宣教師ニコライと明治日本』)。

 ここで、神が聖ニコライに遣わした「一人の日本人」とは元土佐藩士で神明社宮司の澤邊琢磨(数馬)、一年後に見出された「一人の仲間」とは金成出身の医師酒井篤礼、そして彼らが見出した「三人めの同志」とは能登半島狼煙村の出身浦野大蔵(立三)である。

この三人の中で、前者二人については『日本正教傳道誌』などに詳しい記述があるが、三人目の浦野大蔵については資料を目にすることがあまり無い。浦野大蔵は戸籍上の名前を立三と言い、1841年(天保12)に能登半島の狼煙村で、医師、浦野柳齊の二男として生まれ、二十歳前後で箱館へ移住した。後に宮古の金浜村に移住して医療に専念することとなる。1893 年(明治26 )6 月、聖ニコライは東北巡廻の折り、金浜村の浦野大蔵の家に寄っている。大蔵の妻はシカといい、二人の間には子供が七人あった。

元土佐藩士澤邊琢磨については、澤邊琢磨の祖父と坂本龍馬の父が兄弟である(「北海道坂本龍馬記念館」)ので、澤邊琢磨は坂本龍馬の従兄弟の息子である。

話を元に戻すと、神が聖ニコライの下に澤邊琢磨を「お遣わしになった」次第は、次のようなものである。

その頃箱館に諸方から集まってきていた攘夷主義の浪士たちと親交が深かった神官澤邊は、外国の宗教の司祭である聖ニコライに対して「論難を試み、もし答弁の明確ならざるに於いては、天誅を加うるも亦その所なりと思考」した。そして腰に大小を差し挟み、殺気を含む憤然たる相貌にて聖ニコライの前に現れたのであった。

結局、論難を試みたものの、答えに窮したのは澤邊の方であり、教理を聴けば、キリスト教の神は古来日本人が信仰してきた八百万の神のようなものではなく、天地万有の始原者であるとのこと。澤邊は教理に感じ入り、「一応研究せざるべからず」という結論に至ったのである。

澤邊は聖ニコライのもとに熱心に通い、正教の教義を研究した。それまで澤邊と親交のあった攘夷の志士たちは、昨日まで邪教排斥のスローガンを共に掲げてきた澤邊が、今やその主義も信仰も一変し、キリスト教を自ら信奉するばかりか、他人にも進んで宣教する様を見て、神明社の宮司は発狂したと思う人もいたというのも、傍から見れば無理もない話である。聖ニコライとの出会いが、純朴な熱血漢澤邊に真理を見出す心の目を開いたのである。

澤邊は、酒井篤礼にこの真理の神を伝えようと試みる。酒井は「その性質温良にして、しかも剛直、一度その心を決して業を挙ぐるや、専心誠意一切の他事を排して勇進せんとするの気骨ありて、澤邊の敬愛する所の人」であった。一年後、酒井は自ら聖ニコライの下に至り、正教の教理を学ぶこととなる。

同じようにして、浦野大蔵、鈴木富治が正教の教理を聴聞するようになる。

折しも1867年(慶応3)、徳川慶喜は政権を奉還して王政の復古を観るに至るが、キリスト教に対する方針は明治新政府も幕府と同じで、信仰を禁令とした。列国の在日公使らはこれに抗議したが、日本政府はこれを受付けなかった。1873 年(明治6 )になってようやく切支丹禁制の高札が撤去されるが、「一般熟知のことにつき」という歯切れの悪さで、実際にはそれ以降もキリスト教に対する弾圧は暫く続くような時勢であった。箱館では大政奉還に依り旧奉行が去り、新政府の奉行が赴任することとなったが、新奉行は京都の公卿ゆえ、キリスト教に対する弾圧は非常に厳しいものとなるだろうという風聞が広まった。もともと窘逐を畏れるような澤邊たちではなかったが、折角日本に播かれた種が無に帰すことを危惧し、彼らは聖ニコライのもとを訪ね、彼らに洗礼機密を授けて、暫く箱館を去らせてくれるよう頼んだ。聖ニコライはこの願いを祝福した。

 1868年(明治元)5月30日、聖ニコライは誦経者サルトフを見張りに立て、司祭館の居間において洗礼機密を行った。(後の澤邊の回顧談によると、洗礼は夜行なわれたとのこと)。澤邊琢磨はパウェル、酒井篤礼はイオアン、浦野大蔵はイアコフの聖名を受けた。

聖ニコライは、日本で初めて行った日本人の洗礼のことを、モスクワの府主教インノケンティに手紙で知らせた。

受洗後、パウェル澤邊、イオアン酒井、イアコフ浦野、イオアン酒井の妻ゑい(後、エレナ)、イオアン酒井の娘澄子(後、テクサ)、澤邊の従者退蔵は船で青森の大間へ逃れた。そこからイオアン酒井は妻子と共に郷里の金成に向かい、パウェル澤邊とイアコフ浦野は江戸に向かった。

 

六 誦経者サルトフ/ロシア人墓地/ゴシュケヴィッチ領事の帰国

 

 最初の日本人三名の洗礼の時、見張りに立っていたという誦経者サルトフは、1863年(文久3)、箱館に着任した。

 1871年(明治4)三月のニコライの日記には、サルトフが休暇をとるので、函館の教会を任せるものがいない、と記されている。この頃、一旦ロシアに帰国したようである。

サルトフの再来函は、1873年(明治6)の夏頃、東京経由である。既に東京に宣教団の本部を移していた聖ニコライとも再会している。実は、この来日は、官立函館学校が露学校と改称されるに当たり、その学校のロシア語教師(開拓使雇教師)となるように請われての来日であった。

官立函館学校が露学校となる経緯は次の通りである。

時の開拓次官・樺太専務であった黒田清隆が、雑居地である樺太統治のためにはロシア語に通じることが不可欠であることを痛感し、ロシア語に通じた官吏育成のため、当時ロシア領事館が開設されていた函館にロシア語の学校を開設しようと、伺書を太政官に提出し、承認される。1873年(明治6)2月10日、東京から届いた設置認可書簡の中には「御地居留魯僧ニコライ義倭語をも相通じ、兼ねて書生教授の手続申込書有之義に付、同人を教師に御雇相成候方可然」とあり、「彼の語学を教うる外、教法無用」(語学を教えるだけで、宣教は無用の意)の条件で、聖ニコライが開拓使の御雇教師に推挙されていた。しかしこの頃、聖ニコライは既に函館を離れ、上京していた。それで白羽の矢が立ったサルトフが官立函館学校に着任してからは、生徒が増え、教育内容が充実し、九月には露語学校として独立開校するに至る。

函館に在って、サルトフは本業の露語学校の教師として、またその傍ら教会の誦経者として勤め始めたのであるが、その矢先の1874年1月29日、サルトフは突如永眠する。死因は「劇症の中風で、脳中の血管に出血した為」(「北海道医学教育史年表」)。

サルトフは富岡町の路上で頓死したという記述を諸所の書物で目にするのであるが、「これは根も葉もない話で、同日午前十時頃書斎で急に倒れたので、函館病院外科部長エルトリッチ氏と深瀬鴻堂氏が前後往診にきて手当を加えたが、既に事切れていた」とモイセイ馬場脩はその著書『函館外人墓地』に記している。(モイセイ馬場脩については、本書「第三部 特別寄稿」の「函館ハリストス正教会ゆかりの人々」において触れられている)。

病理解剖に渡されたサルトフの解剖同意書にサインをし、遺品を引き取り、後始末を行ったのは大町築出島(大町の外国人居留地)でロシア・ホテルを営んでいたピョートル・アレクセーエフの妻ソフィヤであった。ロシア・ホテルとは、大手町築出島に奉行所からロシア領事ゴシュケヴィッチの名義でロシア領事館に貸し与えられた土地(145坪)に1865年(慶応元)頃建てられ、1879年(明治12)に閉鎖されたホテルである。主人のピョートルは聖ニコライが1872年(明治5)に東京へ移るのに先駆けて宣教団の仕事を手伝うために上京したが、間もなく東京で永眠し、聖ニコライによって横浜の外国人墓地に葬られた。サルトフが永眠した当時は、既にピョートルも永眠した後で、ソフィヤが一人でロシア・ホテルを切盛りしていたのである。ソフィヤは、聖ニコライ上京後、函館教会の管轄司祭となったアナトリイ神父の下に正教女学校で教えていたこともある。

そして聖ニコライの日記に依れば、なんと「彼女は1858年以来日本にいる」というのである。1858年(安政5)と言えば、ゴシュケヴィッチ領事一行が箱館に着いた年で、1861年(文久元)に聖ニコライが箱館に来た時には、既に居たということである。しかし前述のゴシュケヴィッチ一行のメンバーの中にソフィヤという名前は見当たらないことから、このソフィヤとは、領事一行の中の「下女二人」と記されているうちの一人ではないか、というのが清水恵氏の推測(函館日ロ交流史研究会2006年の報告)である。

 ロシア・ホテルでは1876年(明治9)~1878年(明治11)頃に須川長之介、倉岡馬之助、酒井ゑい等が日本人スタッフとして働いている。(須川長之助については、本書「第三部 特別寄稿」の「プラントハンター 須川長之助」に詳しい。)

  サルトフは、船見町から函館港を望むロシア人墓地に埋葬された。墓碑には次のように記されている。

 「在函館ロシヤ帝国領事館付属聖堂 読経者 ヴィサリオン・リウオウイッチ・サルトフ 一八七四年一月十七日死去 行年三六歳 主よ彼の霊に安息を与え給え」(日付は露暦)。

 ロシア人墓地で、サルトフの隣に在るのがゴシュケヴィッチ領事夫人エリザヴェータの墓である。墓碑には「一八六四年九月五日永眠 四三歳」と記されているが、前述の伊藤一哉氏のゴシュケヴィッチ文書に依ると、同年の三月四日付の報告書にゴシュケヴィッチが「私の妻が死んで、その後すぐ私も病気になった」という表現があり、エリザヴェータの永眠日は墓碑に記されているよりも早かったようである。

 前述の書『函館外人墓地』(1975年発刊)は、モイセイ馬場脩が函館外人墓地の墓石を調べてまとめたものであるが、その中には次のように記されている。

   旧ロシア帝国函館領事館付属聖堂であった函館復活聖堂は、明治四十年の大火で焼失して、大正五年、現在の聖堂の完成を見たが、この際、旧聖堂の焼跡からパン焼カマドの様にレンガを積んだ跡から白骨が出て、大騒になったことがあった。 …(中略)… 兎に角白骨は山背泊(現在の船見町)のロシア人墓地に移葬された事件があった。… (中略) … 夫人の死亡前には、本墓地には既に二十三名の露國海軍の兵員が埋られて、現在のロシア人墓地の輪郭が大部分出来上がっていたにもかかわらず、此所には葬らずに、特に聖堂の一隅に埋葬したのは、当時の治安状態の不安を懸念したと言うよりも、寧ろ領事の夫人に対する限りなき愛着の念によったものでもあろう。然し夫人の白骨移葬の際、立合った人々も既に物故して、その跡は今日迄皆目解らない状態にある。

 旧聖堂の焼跡(編注、明治四〇年の大火)から白骨が発見された時には、靴などの副葬品からエリザヴェータであることが判った。現在の信徒会館の東側とみられる。また、現在のエリザヴェータの墓石は、墓石側面に記されている通り、厨川神父の尽力で建てられたものである。

 一方、1864年(元治元)、エリザヴェータが永眠したロシア領事館は、翌1865年(元治2)二月、イギリス領事館から出火した火事で類焼する。当時、イギリス領事館は現在の遺愛幼稚園の場所にあった。領事、領事秘書、コステロフ海軍少佐、医師の住いの建物が焼けた。

火災は深刻な損失をもたらした。領事館は寄る辺を無くした。再度仏教寺院に仮住まいするのは危険があった。 … (中略) … ヨシフ・アントノヴィッチ(編注、ゴシュケヴィッチ領事のこと)は職員全員と共に露米会社の船に移り、ほどなく日本を後にした。この時点でロシアは自国の領事を箱館から召喚せざるを得なかった。(「最初の駐日ロシア領事、ヨシフ・アントノヴィッチ・ゴシュケヴッチ」 ワジム・Yu・クリモフ著より)

 ゴシュケヴィッチは妻の眠る日本を後にして、単身ロシアに帰国した。官位を退いてからは、故郷ベラルーシに戻り、1875年10月5日、ヴィリノ(現、ヴィリニュス、リトワニア共和国の首都)で永眠した。

ちなみに、聖ニコライがペテルブルクからシベリアを横断し、箱館に着任する間もずっと記していた日記が火事で焼失したとされている火事が何時の火事であるか、ということについては諸説ある。箱館(及び函館)に火事が多すぎたのがその一因である。1907年(明治40)の大火で焼失したという説もあるが、聖ニコライは1872年(明治5)に、宣教団の中心を東京に置くべく離函しており、1907年まで自分の日記を函館に置き去りにしておいたとは考え難い。

 実は、1891年(明治24)の臨時公会議事録にパウェル澤邊神父の回顧談が掲載されている。それに依ると「魯館は不幸にも火災に罹り僅かに師の衣類数品を出せしのみにて他は皆烏有に属したり。其時予は実に愀然措く能わざりしが師は自若として翌日より其事務を始め、且つ言わるる様焼けたものを何うするかと。此一言は大に予の為に力を与えたり」という出来事があったのが、澤邊が露館の聖ニコライの下で正教教義を学び始めた後であり、洗礼を受ける前であったことがわかる。つまり1864、5年から1868年の間ということになる。この間、領事館が罹災した火事は、1865年(元治元)、イギリス領事館から出火した火事の類焼によるもののみである。もっともこの火事で聖ニコライの日記が焼失したと明記されている資料を入手した訳ではないので、これも推測の域を出ない。

 

七 仙台藩士の来函/聖ニコライの一時帰国

 ゴシュケヴィッチ領事と領事館一行が帰国した1865年(元治2)頃は、攘夷の機運が高まり物騒な政情であった箱館も、明治維新を迎えると、次第にその雲間から欧米の文明を学ぼうとする精神的な開国の光が差し始めた。世の中の変遷を敏感に捉えていた者たちは、新たな国造りのために相応しい精神的な拠り所を求めたのである。

 1869年、聖ニコライは仙台藩脱藩の浪士たちと知り合う機会を得る。

幕府軍の脱兵と結び再挙を謀ろうとする浪士たちが函館に集まって来たのである。彼らは函館にて憂国の士として名を馳せていた澤邊琢磨を訪ねる。澤邊は国家を憂うる精神こそ昔と変わることはなかったが、澤邊が日本帝国の前途を思い、彼等に説いて聴かせた持説とは「国家の革新は人心の改造よりせざる可らず。人心の改造は宗教の改革よりせざるべからず。宗教の改革はハリストス教を以てせざるべからず」というもので、一同は意外の感に打たれることとなる。

 しかし、その中でも金成善右衛門と新井常之進は、聖ニコライに会い、その話を聴くに至って大いに心服し、国家の改革は真理なる正教の教えに依るべきであると確信して、奥羽の要鎮である仙台に帰って行った。仙台に戻った金成と新井は、知人・同志を訪ね、正教のこと、聖ニコライのことを話した。この時啓蒙された者は、高屋仲(後、イアコフ、司祭に叙聖)、小野荘五郎(後、イオアン、司祭に叙聖)、笹川定吉(後、ペトル、司祭に叙聖)、津田徳之進(後、パウェル、伝教師)、大立目謙吾(後、ペトル、伝教師となりて退職)、大條金八郎(後、マトフェイ)等であった。

 最初の日本人信徒三名の洗礼の後、福音宣教の時期が到来したことを確信した聖ニコライはモスクワの府主教聖インノケンティに、伝道の祝福を得るための帰国願を出す。澤邊に後事を頼み、ロシアに一時帰国したのは1869年(明治2)のことである。

 「後事」とは、ひと言で言えるものの、1871年(明治4)3月22日に聖ニコライが戻るまでの澤邊の苦労は並大抵のものではなかった。

 1870年(明治3)1月には、新井常之進が函館に戻る。その後、5月には小野荘五郎・笹川定吉、大立目謙吾の三人が仙台より来函。八月には津田徳之進、柳川一郎(永沼、後アンドレイ、伝教師となり後に退職)、大條季治(後、パウェル)の三人が函館に向けて仙台を出発。途中で但木良治と影田孫一郎(後、マトフェイ、司祭に叙聖)が合流。これら合計五人は九月に函館港に着く。そして新井常之進を除く八名は全員澤邊の住まいに同居することとなった。当時の函館は前年六月、戊辰戦争最後の戦いである五稜郭の戦いを以って箱館戦争にピリオドを打ったものの、未だ戦禍の跡生々しく、澤邊の家も類焼したため、神明社内の二階屋作りの板蔵を住まいとしている状況であった。しかし澤邊はこのようなことは一向に気に掛けず、この志士の一行を、正教を以って人心を統一し、事を天下に成す同志として家族のように懇待した。

 彼らは日々旧約聖書、信経を読み、正教の教えの真理に近づこうと熱心に教理を研究した。

 この年の冬、小野荘五郎と新井常之進は、一旦仙台に戻る。この時、小野は高屋仲を芋里村に訪ね、自分の言葉で「神の存在の事、神の子の事、神の子が人類救贖のために一処女より人体をとりて生れ、三十三歳にして十字架の刑を受けて死し、後三日にして復活せりとの教義」を解くまでに正教を理解するに至っていたのである。

 一方、函館では依然、澤邊の下で教理の研究が続けられていたが、仙台から来た者たちも次第に生活費も尽き、澤邊もそれを察しないではなかったが、自らが赤貧を洗う生活であれば、秘蔵の刀を売って彼等を補助するの資に供するなど。非常の苦心をした。聖ニコライがいつ戻るかもわからず、澤邊に一方ならぬ苦心配慮を強いるのも心苦しく、笹川と影田は一旦仙台に戻ることを澤邊に相談すると、澤邊は自身、聖ニコライが戻るまではいかにしても彼等を留め置こうと決心していたところなので、この申し出に非常に心を傷め、彼らを留めた。しかし、笹川と影田等は厚くその情誼に感謝して、帰国することを決めた。津田と柳川は函館に残ることを決め、澤邊は幾分か心を慰められた次第であった。

 澤邊は洗礼を受けてからは一切、神明社の社務には関係を断った。聖ニコライは1869年(明治2)にロシア一時帰国する直前まで僅少の額をもって彼を補助したが、これは海中に一滴を投ずるようなもので、澤邊家の家計は困難を極めた。「彼等が如何に貧困を忍び居るかを想ふ時は我が心は言ひ表はし難き苦痛に迫る、澤邊は古ぼけた暗き土蔵(神社の附近に在る)の中に生活し彼の家族の為めにも此住居は狭くあったのに余程久しく十人の食客が此処に寄食して居た」と、この当時の澤邊家の様子について聖ニコライは記している。

 その様な訳であったから、1871年(明治4)3月22日、聖ニコライが再び函館に戻った時、澤邊の喜びは如何ばかりであったであろう。同日夜、聖ニコライは彼の帰りを函館で待ち侘びていたパウェル澤邊、妻マリヤ澤邊、津田、柳川、後藤謙三(後、イアコフ)等と会い、澤邊から留守の間の報告を受けた。

聖ニコライはロシアで日本の情勢を伝え、伝道のためには好機であるため日本伝道のための伝道会社を組織することを許可してくれるよう、宗務院に請願した。宗務院は聖ニコライの請願を受けて、1870年、日本宣教団の設立を認可し、聖ニコライを掌院に昇叙して、その宣教団長とした。

 

 八 宣教団長聖ニコライによる福音伝道開始

  1871年(明治4)、聖ニコライが函館に戻り、津田徳之進、柳川一郎は澤邊宅よりロシア領事館の敷地内に移った。仙台からは小野荘五郎、笹川定吉、儒学者眞山温治(後、パウェル)、大立目謙吾、大條季治、小野虎太郎(後、ペトル)、小松韜蔵、影田隆郎も来函。やはり領事館の敷地内に奇遇して正教の教理を研究することとなった。函館で医を業としていたイオアン酒井も医業を廃して専ら福音伝道に携わることを希望するようになった。

  彼らは日夜、正教の教義を研究した。また聖ニコライは予てから欲していた石版印刷器をこの度の帰国で携えて来ており、印刷方法が書いてあるものを見ながら薬を調合し、高屋、大立目らに版下を書かせ、津田、大條、岡村らを相手に、自ら職工となり、日本語を学んで初めて訳した天主経、日誦経文、東教宗艦、教理問答などを印刷した。聖ニコライが澤邊、関と共に和訳した「聖経実績録」や、聖ニコライが海野隆平(鈴木)と共に和訳した「露和字彙」は写本として伝えた。この「露和字彙」は、東京の神学校でも学生たちが写し伝え、1881年(明治14)、文部省編輯局出版の「露和字典」が出るまでこれを用いた。

 1871年(明治4)、小野荘五郎ら13人が洗礼を受ける。代父はパウェル澤邊であった。

 そして12月、聖ニコライはイオアン小野荘五郎、ペトル笹川定吉、イアコフ高屋仲を仙台における布教に送り出す。

 

(聖ニコライは、)これより初めて日本内地の布教に遣わされんとする彼等に向かい、最も懇に福音の道を説かれ、且布教上の事に関して懇切なる注意を与えられたり。当時函館に於いて布教を開始し、同港及び仙台の旧藩士より信徒を得る僅か数名に過ぎず。今や神の恩佑によりてこの膝下に集りたる者を伝道のために再び散ぜしむるは、恰もこれ母雛の翼下にある雛鳥を散ずるに均しかりき。今、神国の福音を伝えしめんがために、彼等を茫洋たる異教者会に遣わさんとするは、これ実に師が日本に来たりて、日本内地に然かも日本人をして布教に従事せしめんとするの始めての業なりき。(1871年12月)。(『日本正教傳道誌』より)

 

 このようにして日本の内地(本州)における日本人による正教伝道は始まった。これより日本全国に伝道を開始するためには、その中枢を東京に置くことが必須であると判断した聖ニコライは、1872年(明治5)2月、函館から日本の首都に居を移した。

 

 九 修道司祭 アナトリイ(チハイ)時代

  ~アナトリイ司祭に養われたる教会の風習は、今尚、信徒の間に遺存して教会の美風をなせり。~

                                (『日本正教傳道誌』より)

  聖ニコライが東京へ発つに先立って、修道司祭アナトリイ(チハイ)がロシアより着任する(『日本正教傳道誌』に依れば1871年12月7日来函。『ニコライ堂遺聞』に依れば1872年1月31日来函)。

 アナトリイ神父の来日までの略歴は次の通りである。

 アナトリイ神父は聖ニコライよりも四歳年下で、1840年キシニョフ主教区の堂役ドミトリイ・チハイの息子として生まれる。キシニョフ神学校在学中にアトスのザスラフ修道院にて修道の誓いを立てる。修道院で四年を過ごす。1867年、キシニョフ神学校卒業後、1871年、キエフ神学大学を卒業。同年、請願を許されて日本の正教宣教団の一員として修道司祭に叙聖。函館の教会を管轄したのは1871年(一説には1872年)から1879年(明治12)まで。

聖ニコライは「篤実温厚なる宣教師にて、特に神学、哲学等に精通したるの学者なる」アナトリイ神父に函館方面の伝道と生徒の教育を一任して、上京した。

アナトリイ神父は、着任早々函館市内における伝道体制を整えることに着手した。領事館敷地内の学校を伝教者養成の学校とし(1873年に私立「伝教学校」となる)、信徒たちはマトフェイ影田孫一郎、イオアン酒井篤礼、パウェル津田徳之進の三人を伝教師として選出した。パウェル津田は大町の屋号「山吉」方に講義所を設け、イオアン酒井は恵比寿町の屋号「カギ三」方に出張、マトフェイ影田は天神町の越後屋(イオシフ真野)並びに腰山方に伝教所を定めて布教に従事した。聴講者は日々数を増し、伝教師も信徒たちも心を同じくして布教に尽力した。1872年(明治5)3月23日の復活祭には、30名前後の信徒と数十名の未信徒が聖堂に集まって主の復活を祝った。翌日から始まる光明週間には毎日鐘を鳴らし、多くの市民が来堂した。伝教学校の生徒が入堂者の整理に当たり、100名くらいずつ入替えながら正教の要理を話して聴かせた。

ちなみに、函館正教会は、この前年(1871年)に日本で最初に正教の復活祭を祝った教会である。わずかに七人の日本人と14人の外国人のみであった。数個の紅卵を供えてあるのを見て、当時函館にいた津田たちはこれを「珍奇」と思ったという。

 

【函館市に於ける正教信徒に対する窘逐】

 市民の間に正教会の名が伝播し、さまざまな風聞が伝えられていく中、この状況を危惧したのは開拓使庁の官吏たちであった。前述したように翌1873年(明治6)2月に切支丹禁制の高札が撤去されるという時勢にも関わらず、当時の官吏たちの対応は、旧幕府時代の役人とさして変わらず、宗教に対する見解も祭政一致主義を通して民衆の宗教を支配しようというものであった。もっとも大日本帝国憲法に信教の自由が定められたのが1889年(明治22)のことであり、それも自発的なものではなく、西洋諸国との交際上の都合に依るというのが主な理由であったとすれば、ここで正教に対する窘逐が巻き起こったのも無理からぬ話かもしれない。

 結局、ペトル腰山は公職を停止、イオシフ真野は親族預かりを命じられ、イオアン酒井は捕縛されて町会所の獄屋に投獄、パウェル津田とマトフェイ影田は弁天台場の獄に投ぜられた。白洲のでの尋問のやり取り、また獄中生活については、『日本正教傳道誌』に詳しい。

 

 正教会信徒捕縛の報が市中を駆け巡った。聖堂拝観に来る者は無くなった。市民は正教会と関わることを畏れて遠のいた。

 しかし一方、教会ではこの窘逐事件を機に、信徒たちの信仰は一層堅固なもとなった。イオアン酒井の妻ゑい(後、エレナ)、長女澄(後、テクサ)、次女実(後、マトロナ)は、酒井入獄の三日前に刈敷から函館に着いたばかり。戸主が入獄し、忽ち衣食住に窮する所となった。信徒たちは。主ハリストスの名のために迫害に遇うことを名誉とし、その家族を援け、慰めた。「斯くの如くにして、少数信徒よりなれる函館に於ける一小教会は、主の御名のために窘逐を忍び、信仰の堅固なる磐上に樹てられ、且信徒は互いに愛を現し、これによりて信仰に基づく愛の心を実行したりしかば、人々始めて信徒相互の愛を感じ得たり」(『日本正教傳道誌』)。

 この時、仙台、函館において起こった正教信徒窘逐事件は、ドイツ公使をはじめ列国の公使が日本政府に抗議するところとなった。ほどなく中央政府より正教信徒放免の命が伝えられ、1872年(明治5)5月31日、二ヵ月ぶりに、マトフェイ影田、パウェル津田、イオアン酒井(以上、入獄)、イオシフ真野(親族預かり)の四人は刑法局の白洲に召出され、「特命に依りて赦免せらる」との宣告文を以て直ちに赦免されたのであった。

 彼らは真っ直ぐに伝教学校に帰り、アナトリイ神父を始め、信徒たちに悦び迎えられ、主・神の御旨のいと深く、これによって益々信仰を養われたことに感謝の祈祷を捧げた。

  悦びも束の間、開拓使庁では、捕縛した者とこれに関係のある者を本籍地の役所に照会して、召還するように命じた。これによって、イオアン酒井、マトフェイ影田、パウェル津田、ティト小松、アンドレイ柳川、ペトル小野、ワシリイ涌谷、ボリス阿部、ニコライ牧野、アンドレイ今田、ロマン柴田等は、アナトリイ神父の祝福を受け、函館の信徒に別れを告げて函館港を出帆したのであった。

 この時、イオアン酒井は、三女信を身籠っていた妻ゑいと娘二人を函館に残すことを選んだ。後に、信の夫イオアン小野帰一神父(後、ニコライ小野主教)は次のように記している

  尊母〔酒井ゑい〕はわが正教婦人の初実の果でありまして、明治の初年ハリストス教が迫害をう受くる時分には、つぶさに辛酸をなめました。夫君は国禁を犯して基督教を奉ずるという廉で獄に繋がれましたから、その夫人としての尊母にも官憲の注目はなはだしく、一定の家に安居することも出来ず、二人の幼女を抱へ、あまつさへ第三子妊娠中でありながら、知人を便り便つて、ほとんど流浪に等しい寄る辺なき身を、或は他人の床下に、或は知人の屋根裏に夜を昼を送りなどして、果ては米塩の資にさへ差支えをきたし、内には飢餓の苦痛あり、外には殺害の恐怖あって、夜は夜の安息も得られず、昼も昼の明るさを味はされず、闇から闇にと迫害を忍んでおられました。(小野帰一神父「酒井老母の柩前に立ちて」、『正教時報』大正15年11月)

 

 エレナ酒井ゑいにしても、マリヤ澤邊タネ子にしても、日本正教会黎明期の十字架を夫と共に担った女性たちの人生は苦難と忍耐の連続であり、その舞台は函館であった。

  函館では、パウェル澤邊、パウェル岡村、ダミアン五十嵐、アレクセイ山中、イオシフ眞野、ペトル鈴木、ティホン三浦等が市内で伝道を続けた。

 1873年(明治6)、函館正教会では東京からの聖ニコライの祝福の下、議員の選挙が行なわれた。現在の執事会である。当時伝教者の職に在った者は、ペトル大立目、マトフェイ影田、アレクセイ山中、イオアン酒井、ペトル河田、アレクセイ樋渡、ロマン柴田、パウェル岡村、キプリアン林、スピリドン大島ら。また一般信徒の中から選定された議員は、ダミアン五十嵐、ウラディミル鈴木、ニコライ小野寺、パンテレイモン東浦ら10名。また婦人の中からも数名を選んで男子信徒の参助にあたるようにした。この時選挙された婦人は、アンナ小野、エレナ酒井、エレナ五十嵐、ハリテナ小野寺、エレナ野村、マリヤ越山ら。アンナ道家がかれらを統率した。

彼女たちはこの年婦人会を結成した。婦人の信仰を養い、慈善活動を行った。『日本正教傳道誌』には次のような記述が見える。

  1874年も冬には、男子の教会に於ける勢力衰え、却て女徒会の勢い甚だ盛んなりき。この婦人会創立の際より今日(編注、1900年)に至るまで、教会内外の事を慮り熱心に奉仕する信徒は、アンナ小野、エレナ酒井、エレナ五十嵐、エレナ野村、アレクサンドラ倉岡ら。また若い世代にも教会に熱心な者が少なからずおり、婦人会は益々盛んになっていく。

 この年の復活祭は150~160人の参祷者があった。

アナトリイ神父は、教会財務にも深い注意を向けた。貧しい信徒のために教会公産の積立法を設けた。一度は、200円ほど積立てられた時に、信徒補助の目的で使い、もう一度は400円ほど積立てられた時に、同じく信徒補助の目的で使った。教会の基本財産にも注意を払い、不動産を持つようになった。曙町に宅地224坪と家屋二棟(1888年購入)、宝町に宅地33坪、家屋一棟(1890年購入)など。この教会資産は、かつて教会の執事だったザハリヤ山中量平の尽力によるものとのことである。

 アナトリイ神父は、初めは教会スラブ語で奉神礼を行なっていた。信徒が次第に奉神礼を理解するようになると、アナトリイ神父は初めて日本語で奉神礼を行なった。始めはわずか「主、憐れめよ」の一句を日本語で唱し、または「我等安和にして」など短句のものを日本語にて唱えた。次第に日本語の奉神礼が完備し。ヤコフ・チハイが来函して聖歌の翻訳にも携わり(徹夜祷、聖体礼儀などの単音聖歌を中国語から日本語に移し替えた)、奉神礼に大きく貢献した。

【詠隊教師 ヤコフ・チハイ】

  ヤコフ・チハイは、アナトリイ神父の実弟で、サルトフの永眠後、詠隊教師として1874年(一説に1873年)、函館に着任した。函館でアナトリイ神父から洗礼を受け、函館の伝道学校で学んだ人の中に長司祭シメオン三井師がいる。三井師が後年当時の思い出を綴った「回想断片」の中にヤコフ・チハイから聖歌の授業を受けたことが記されている。ヤコフ・チハイは1876年(明治9)、東京で日本人女性エレナ横井と結婚。函館を離れている。現在も日本正教では、ヤコフ・チハイの作曲による日本語聖歌が歌われ、親しまれている。日本正教会聖歌の黎明期に多大な貢献をした人である。1886年(明治19)12月25日、43歳の若さでロシアにて永眠。

 チハイの永眠を伝える「正教新報」第175号(明治21年3月15日発行)には次のように記されている。

  …当時我教会には祈祷に唱歌の設なくして奉事の式未だ備らざりしが氏始めて聲調を按へ曲譜を製りて子弟に唱歌を授け神を讃美し主を讃栄する者をして深く正教会歌唱の美を盡し善を盡すを知らしめかくて聖堂奉事の式漸く序あるにいたれり今聖堂に於て用ふる所のヘルワィムの歌譜は氏が多年の経験により我国人の性に応じて作りたる者にて耳を具へて聞く者はその調の微妙なるを感ぜざるなしこの他自作の譜蓋少なからず。 …(中略)… ことに吾教会の如きは親しくその教導を受けたるゆゑこれをいたみて報ゆるに救贖の祈祷を以てせざるべからずかつ氏の歌譜を作るその功大なるを以て永くその名を吾会に録して忘るることなかるべし後の人もまたさきにその恩に倚らんとす。

【東京に於ける日本正教会最初の布教会議】

 1874年(明治7)4月、聖ニコライは日本正教会最初の布教会議を開き、伝教者を東京に召集した。出席者は聖ニコライ(掌院)、伝教師イオアン小野、伝教師イアコフ高屋、伝教師パウェル佐藤、伝教師ダニイル影田、伝教師パウェル津田であった。伝教規則と伝教者の配置が決まった。

 函館地方は、アナトリイ神父の管轄の下に、パウェル岡村、アレクセイ山中、ペトル河田、アンドレイ小関、ロマン柴田の伝教者が配置された。

 日本における正教の伝道は、函館を起点として東京・仙台・盛岡地方に及び、さらにこの諸地方を起点として、その近隣に多くの教会が起こった。特に東京は日本正教会の主教座となった。日本正教会の本会が東京に定められたことに由って、上野州、信越地方、また東海道地方、さらには大阪での伝道が容易となった。

【日本で最初の神品機密】

 函館は日本で最初の神品機密が行なわれた場所でもある。

 1875(明治8)、カムチャッカ、クリルィ及びアレウトの主教パウェルが函館に来航し、7月10日にパウェル澤邊を司祭に、7月13日にイオアン酒井を輔祭に叙聖した。

 【カムチャッカ、クリルィ及びアレウト教区との関係】

 箱館復活聖堂に初めて主教品が来函したのは、前述の1861年(文久元)9月20日、大主教インノケンティ(ヴェニアミノフ)で、生神女誕生祭に奉神礼を行なった。二回目は、1872年(明治5)7月26日に来函した主教ヴェニアミン(ブラゴヌラヴォフ)で、生神女就寝祭に奉神礼を行なった。これら二回の奉神礼は日本において初めて主教品が行なった奉神礼であり、参祷者はその厳かな祈祷に感動しない者はなかった。

 当初、在日ロシア帝国領事館付属教会として始まる日本の正教会は、ロシア正教会に在日宣教団が結成されると、組織的にはロシア正教会の宣教団に属することとなったが、カムチャッカ教区の主教によって牧さ

れていた。日本の正教会がカムチャッカ教区に属していたわけはないが、カムチャッカ教区の主教が日本に在る教会を牧する謂わば「担当」の主教だったのである。

 聖ニコライが主教ヴェニアミン(ブラゴヌラヴォフ)宛ての手紙の中で「固より吾宣教館は座下の管轄指導を受くる譯なれば」と書いているのは、この意味である。1875年に最初の司祭パウェル澤邊師司祭叙聖がカムチャッカのパウェル主教によって行われているのも、1878年にイオアン酒井らがカムチャッカのマルチニアン主教から司祭叙聖を受けているのもこれに因る。

 当時の日本の奉事経の重連祷などに「我等ノ大主教(マルテニアン)」と記憶されているのは、このマルチニアン主教である。この教区は1840年に形成され、1916年までの正式な名称を「カムチャッカ、クリルィ及びアレウト教区」と言う(現在、「ペトロパヴロフスク及びカムチャッカ教区」)。この状態は、1880年(明治13)、聖ニコライがレーヴェリの主教になるまで続く。

【アナトリイ神父離函】

 この頃は、北海道において、教会は函館正教会のみであり、司祭もロシアよりモイセイ神父、エウフィミイ神父が短期間滞在するが、常任管轄司祭としては、アナトリイ神父一人だけである。1877年(明治10年)の北海道の景況は、函館に信徒およそ70余戸、有川大野諸村に20名余、福山26名、北海道各郡に散布する信徒56名である。有川(現在、上磯正教会)における最初の信徒は、イオアン大村、ペトル田中、パウェル寺澤の三人で、洗礼を受けたのは18776年(明治9)3月のこと。ダミアン五十嵐が専ら伝教に努めて開拓した地である。札幌に講義所ができるのは、1881年(明治4)のことである。『日本正教伝道誌』には、次のように記されている。

  函館は北海道と本州との咽喉の地なれば、従って当教会より北海道内地に移住する者甚だ多く、又当地の人とては本州よりの移住者のみなれば、時々その郷里に帰還する人も多く、数年前まえでは、常住者の稀なるがため、当地教会の進歩を妨げたりしも、またこの移住者は北海道の内地、もしくは本州の内地に移住して、その教会の勢力となり、特に北海道の内地もしくは本州の内地に移住してその教会の勢力となり、特に北海道内部の教会の起源には深き関係を有せり。故に当地の教会は最も古き教会なるに、今日尚依然たる形勢なるも、これを以て教勢の退歩というべからざるなり。この日本教会の母たるの教会は既に多くの子を生みて、その子たるの教会は今日盛んに進歩し、また函館教会は教勢の進歩を妨ぐる内情なきにあらざりしも近年組織整備して、イサイヤ村木、アレキサンドル細川らに次ぎて、現今ペトル小原、ジロト茂木の両伝教師専ら布教に尽力し居れり(1900年)。

 アナトリイ神父は、1879年(明治12)、公使館附きの司祭に転任して東京に移る。アナトリイ師が函館を去る時の様子が、『日本正教傳道誌』に次のように記されている。

  師は当会に八年の間在職せられしかば、この間親しく信徒に接してその信仰を養い、教会の風習を養われたり。されば函館教会は最も幸福なる教会にて、アナトリイ司祭に養われたる教会の風習は、今尚、信徒の間に遺存して教会の美風をなせり。又同司祭は永くこの教会に居られしかば、師父信徒間の交情は、真に父子の如き関係ありて、その愛最も深かりき。故にアナトリイ司祭は公職のため、同会の信徒に別れ東京に赴かんとする際に、信徒を会して祈祷を献げて後、衆信徒に向かい、兄弟姉妹よ、予は此教会に職を奉ずる事、茲に八年間なり、この長年月間には、兄弟姉妹に対して多くの罪を犯せり。今別れんとするに当たりて願くは予にこの罪を赦されよ云々と。かくて膝を衆信徒の前に屈して其罪の赦しを請われしかば、集れる信徒は師父の謙遜に感じ、この良牧師に別るるを悲しみ泣かざる者なかりしと。

 アナトリイ神父に次いで函館管轄となった司祭は、修道司祭モイセイ、掌院エウフィミイ、修道司祭ガヴリイル、修道司祭ディミトリイの諸師であったが、いずれも在函期間は長くなかった。

一〇 司祭 ティト 小松韜蔵時代 1882年(明治15)~1891年(明治24)

 

 ~北海道の広大な牧野に神の恩寵を説いて廻った大伝道者~

                      (釧路教会『百年の歩み』より)

  ティト小松韜蔵神父は、1882年(明治15)の公会で司祭に選出、叙聖される。任地は函館。同年八月、聖ニコライは、函館正教会の管轄として初めての日本人司祭となるティト小松神父を気遣ってのことか、やはり函館に配置された副伝教者ワシリイ山岡を伴って、海路函館に赴いた。同年の正教会公会議事録によると、小松神父の管轄範囲は道内の函館、有川(現、上磯)、七重、福山、寿都、小樽、札幌、内地は主として秋田県下の花輪、十二所、毛馬内、荒川、大湯、大館、曲田、即ち北海道の西部海岸から道央、本州の日本海岸北部まで、更に翌年は久保田(現、秋田)、雄勝、千北地方まで管轄している。『正教傳道誌』には、「ティト小松神父はしばしば津軽海峡を渡り …(中略)… 東西奔走その辛労もとより筆舌の尽くす処にあらざりき」とある。

 函館に着任した小松神父、山岡副伝教者は、信徒たちに温かく迎えられた。既に当地に配属されていた松本副伝教者と共に三名による布教体制が整えられた。市内に多くの出張講義所を設け、境内の正教小学校も男女の生徒合わせて七〇余名。教官は加藤氏、他四名。エレナ川股及び一、二名の信徒が女生徒に裁縫を教えた。加藤氏は長く教育に従事し、生徒を訓導してきた人なので、授業上の事に老練であり、校務のこともよく心得ており、万事においてよく行届いていた。

 同年には、エレナ酒井ゑいが函館正教会女徒親睦会を創立している。函館正教会においては、所謂「婦人会」の創立が1873(明治6)年であり、この年結成された「女徒親睦会」というのは、女性信徒の「学びの会」のような性格のものであったと思われる。

 1883年(明治16)4月28日の復活祭は大雨にも関わらず、250、60の信徒が参祷した。敷地内には百数十個の毬燈を十字形に組立て、その中央に一丈余りの大十字架の角燈を灯したものが闇の中に美しく映えた。復活祭の祈祷が終わり明け方頃になると、市内から未信徒が参堂し始め、その数は数千人に及んだので、神父と伝教者は夜の七時まで案内・説明に追われ、休む間もなかった。この日から5月1日まで三日間引き続き拝観を行ったところ、この間に集まった者は概ね二千数百名ほどになった。

 当時、市内に設けた講義所には、30人から60人ほどの聴講者があったが、ある時期、洗礼を受ける者が少ない状況が続いた時があった。すると、信徒たちは宣教拡大の不振の原因を自らの勉強不足と捉え、集まって教理、聖書を学び励むのであった。

 1884年(明治17)の「正教新報」(明治17年2月1日発行)には次のような記事が見える。

同会の女徒親睦会も追々盛んに至り本年の初回には60余名の女徒集まり交わるがわる講義をなして退散したるより且つ右の女徒方は裁縫に巧みなる同会の千葉アンナ姉を教師として裁縫洗濯洗い張り西洋洗濯などを教ゆる一の教場を設けて同市中の寡婦などに自活の道を与えんことを計り居らるるよし殊勝というべし。尤も追々女学校を設立せんとてそれがために女徒の積み金もはや二百余円に至りしという。また同会の寄宿生外来の小学生徒らは1月の遊びにとて昨年中出版なりし『初実の果』の問答をカルタに作り日々その勝敗を争い楽しみ居る中、生徒はもはや『初実の果』を暗唱するに至りしという。

 1884年(明治17)、裁縫女学校(正教女学校)が設立される。生徒は30名。

 1885年(明治18)の「正教新報」第114号(9月1日発行)には、函館正教会の学校について次のような記事が掲載されている。

  教会の兄弟姉妹平安にして男女の小学生徒現員212人ありて男学校は校長佐藤(編注、加藤?)マトフェイ氏之を司り三人の教師と四人の助教師が教授せられ、女学校は酒井司祭の令閨エレナ姉校長にして一人の女教師とエレナ姉の令嬢テクサ、マトロナの両姉が教授を助けらる。両校とも校長のい注意行届き誠に能く治まり生徒の進歩も著しく且つこの学校はもとより普通小学科を教授さるれど、教会の小学校なれば殊に正教の教理を授けらるることなれば、学校の治まりかた、生徒の進歩、何れも他に優れて見ゆる故今日にては教会内の子弟のみならず異教人の子弟にて入学する者甚だ多く、その子弟が此校に通学して正教を学び信徒となり、遂には父兄も感化を受けて信徒たらんことを望むに至る有様にて厚く異教人の信用を受け、入学者益々多くなり。女学校の如きは甚狭くして生徒入るるに足らざれば、此度一棟の学舎を新築することに着手せられたりという。

 【根室県下シコタン島の布教】

当時の北海道は三県時代(明治15年2月から明治19年1月まで)で、道内は函館県、札幌県、根室県という行政区域に分かれており、当時北海道の玄関口となっていた函館県に一番人口が多かった。この頃の北海道は基本的に小松神父が一人で管轄していたのであるが、道央は札幌、小樽迄で、道東の地名は1885年(明治18)の公会議事録に「根室、シコタン島」として初めて登場する。当地には副伝教者パウェル谷が赴任するが、ここも管轄司祭は小松神父となる。

 1885年(明治18)の公会後、聖ニコライは8月7日付けでシコタン島(「志古丹島至聖三者教会」)の信徒たちに、管轄司祭と伝教者が配置された事、シコタン島より神学生を東京に送る事などを手紙に書く。翌八日には聖ニコライ自ら海路、函館に赴き、おそらくこの手紙を小松神父に手渡し、指示を与えて、一両日の滞在ですぐに東京に戻っている。聖ニコライはシコタン島のクリル人信徒たちのことを、常に心より慮っていた。

 当時のクリル諸島(千島列島)の正教伝道の概略は次の通りである。

露人アレキサンドル・ルダコフ氏著の教会史の記す所なりとて、左の一文を引用せり、『彼の東洋の教化者として有名なる「イルクトスク」の大主教聖インノケンテイ師の西比利亜に宣教を開始するや、師は部下の宣教師をして「カムチャッカ」方面をも教化せしめんと欲し、聖堂を建て、学校を起こし日夜伝道に従事せしかば、1750年に至り「カムチャダル」族の諸酋長は多数の部下と共に欣然として領洗せり』。

その後、千島列島に数名の司祭が派遣され、聖堂が建てられ、正教の信仰に進む者が増えていく。そして1870年(明治3)にハララヒイ師父(編注、ハルランピイ師父と思われる)の巡廻があったのが、ロシア教会管区の司祭の巡廻としての最後だったという。1875年(明治8)に樺太千島交換条約が結ばれ、樺太の南と千島列島が日本の領土になると、正教信徒であるクリル人たちは日本の国民となった。1884年(明治17)、シュムシュ島に居たクリル人97名は全員が今の色丹島に移住した。

  小松神父が聖ニコライの祝福の下、色丹島の彼等を巡廻したのは、この翌年のことであった。1870年のロシア正教会司祭の巡廻が最後だったとすれば、それから10年以上が経っていた。

  「我がティト小松師父は色丹に巡廻せられ、諸機密を執行せり、十数年間領聖を渇望して能わざりし彼等の喜び言動に現れ、全員告解領聖の機密を受けしを感謝せり」。

  実は、彼等はまだシュムシュ島に住んでいた1880年(明治13)に聖ニコライに手紙を出し、司祭を派遣してくれるよう、請願したことがあった。この小松神父の巡廻の後、会堂を建立し、伝教者を派遣する基礎が固まり、色丹教会が成立するに至る。(「千島伝道の顛末」落羽野人/「正教報知」第637号 、明治40年6月15日発行より抜粋要約)

 1888年(明治21)は、ロシアでは西暦988年の「ルーシの洗礼」の後900年を祝し「露西亜民領洗900年期祭」が挙行された年である。

 この年の公会において、小松神父は札幌の景況が伸びてきていることを報告している。小松神父巡廻の折に、14名の領洗があったこと、また札幌に会堂を建立することは急務であることを力説している。(会堂は1894年〔明治27〕に建てられた)。

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