函館ハリストス正教会

正教会読み物 ~ 他人を謗(そし)らず、自分を省(かえり)みることについて

聖師父の一人に、ドロフェイ(†620頃)という人がいます。パレスチナの修道院において修業し、後に修道院長となった人であること以外、この聖人の生涯についてあまり詳しいことはわかっていません。しかし、聖師父ドロフェイが遺した「21の教え」は正教会の聖神°性を学ぶための基本的な書として今日も多くの修道院において尊重されています。その書の中には人生の様々な状況において、ハリスチアニンとしてどのように考え、どのように行動するべきか簡潔な言葉でアドバイスが与えられ、人間の心の動きについて緻密な分析がなされています。

 

今回は聖師父ドロフェイの「21の教え」から第7の教え「他人を謗らず自分を省みることについて」を紹介しましょう。

◎自分は心の平安を得ていると思っている人がいたとしましょう。ところが隣人が来て、何か気に障るような言葉を言った途端、この人の心は怒りと悲しみで一杯になり、あたかも隣人に相当の仕返しをする権利があるかのように考え、こう言います。

「隣人が来て私を悲しませるようなことを言わなかったならば、私の心は罪を犯さなかっただろうに」。

これは何とおかしい判断でしょう! このような考えは悪魔の誘惑に他なりません。なぜならば、この人の心に生じた怒りと悲しみの原因は、彼のところに来た隣人にあるのではないのです。隣人は、既に以前からこの人の心の中にあった罪を表面に出しただけなのです。これは中が腐ったパンと同じです。表面はきれいですが、割ってみた時に中が腐っていることが分かります。これはパンを割った人が悪いのでしょうか。表面的に自分の心に平安を得ていると思っている人、自分には何も悪いことが無いと思っている人が、何らかの外部からの要因によって簡単に困惑に陥る原因はここにあります。外部からの要因は、自分自身も知らなかった潜在的なものを表に現してくれたのです。このような困惑に陥ったときは、痛悔を受け、心の中を潔くしましょう。また、この時初めて人は隣人に怒るどころか感謝すべきであったことに気がつくでしょう。

 

 外部からの要因についてあれこれ言う者について聖師父ドロフェイは次のように言っています。

◎誰かが犬に石を投げたとしましょう。そのとき犬が、投げた人には向かわず、飛んできた石に向かって噛みついたとしたら何とおかしなことでしょう。しかし実は私たちも同じことをしているのです。つまり、このような試みをもたらされた主・神のことは放って置いて、主・神がそれを自分の潔めと痛悔のために送られたものであることを顧みず、全ての関心を隣人に向けるのです。「なぜ、彼は私にこんなことを言ったのだろう。なぜ、彼は私にこんなことをしたのだろう」と。人間一人ひとりの霊の益になることを行われる主・神の慮りを悟らず、愚かにも自分の霊にとって害になることに一生懸命こだわっているのです。

 

聖師父の一人であるシリヤの克肖者聖エフレムは、次のように言っています。

◎自分の周りの状況に悪いことばかりを見出し、不平不満を言う人は、実は自分の心の中にあるものを見ているのです。このような人はたとえ天国を見たとしても、そこに不平不満の種を見出すでしょう。

 

全ての聖師父たちの教えに共通することは、自らを省みずして心の平安は在り得ないということです。聖師父たちの言葉に「もし良いことが起こったならば、それが神の御心である。もし悪いことが起こったなら、それは私たちの罪の故である」とあるのも、同じことを教えています。

マトフェイ伝には次のように書かれています。

「もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい」。(マトフェイ伝5;39)

 

オープチナの聖アンヴロシイは、この聖書の箇所について次にように言っています。

◎考えてみてください。普通は、右の頬というのは打つのが難しいのです。つまり、右の頬を打たれるということは、自分が受けるはずのない被害を被ること、自分が非難される根拠のないことを言われることです。その時にもう片方の頬をむける、つまり左の頬を向けるということは、打たれて当然のこと、打たれて当然の自分の罪を思い出しなさいということです。もし現在について思い当たらなければ、過去の罪を思い出してください。そうすれば必ず思い当たるはずです。

 

聖師父ドロフェイは、第6の教え「隣人を裁かないことについて」の中で次のように言っています。

◎私たちも愛を得ようではありませんか。隣人に対する寛容を得ようではありませんか。己の身を滅ぼす雑言悪口、非難、侮蔑と決別し、互いに自らを助くるが如く助け合おうではありませんか。

 

ここで思い出されるのは、新約聖書に記されている主ハリストスの言葉です。「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これが一番大切な第一の誡めである。第二もこれと同様である。『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』(マトフェイ22;37~39)。主・神の如く完全な愛は、人間の全ての弱さと不完全さを覆い、主・神に喜ばれる何よりの捧げものでありましょう。

〔函館ハリストス正教会報2009年10月・11月号より〕

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