函館ハリストス正教会

正教会読み物 ~ 良心について

今回は、聖師父ドロフェイの『21の教え』から第3の教え「良心について」を見てみましょう。

 

「良心」という言葉は、世間一般にも使われている日本語ですが、正教会の教えの中で「良心」という時、それは何を意味するのでしょうか。

 

聖師父ドロフェイは次のように言っています。

「神が人間を創造された時、神は人間の内に霊的な光のようなものを置かれた。この光は人間の智恵を照らし、何が善であり、何が悪であるかを示す。これを良心と言う。これが人間の中に働く自然の法である」。

 

最初の人間アダムとエヴァがまだ楽園に居た頃は、この良心に陰りがなく、人間としての「あるべき姿」が守られていました。

ところが、彼等が罪をおかし楽園を追放された後は、時代が下るとともに人間の中に働く自然の法の力は、人間が積み重ねる罪の故に弱くなっていきました。その結果、人間は自然の状態において神の声を正しく聴く力を失い、人間の本分を忘れ、自分を創造してくれた神のことすら忘れるようになりました。

そこで預言者モイセイ(モーセ)の時、文字によってこれらのことを書き留めることが必要となり、著されたのが聖書です。聖書は文字によって著された神の法であり、良心は自然の内に働く神の法であると言えます。

神が、既に人間を創造された時点で人間の内に良心を組み込んだ訳ですから、良心の無い人間はいません。

ただ、この良心の光を自分の内の中心に置いて明るく輝かせるのか、それともカーテンの陰のような見えない所に置くのかは、人間各個人の権内にあります。

 

聖師父ドロフェイは、良心には三つの側面があると言っています。一つは「神に対する良心」、二つ目は「隣人に対する良心」、三つ目は「物に対する良心」です。

 

「神に対する良心」とは、
神と自分の良心だけが知っていること、他人は知らないことに関するもの。例えば、祈りにおいて熱切であったのか、注意散漫であったのか、心の内に芽生えた不浄な思いを払拭できたのか、できなかったのか…など。また、次のような例も良心の働きです。神と自分しか知らない隠れた重い罪があるのですが、神がその慈憐によって即座に罰を下さなかったとしましょう。ところが暫らくの後、全く思いがけない中傷や誹謗が襲い掛かり、始めは面食らうのですが、良心はこの災難が、あの隠れた罪の故であることを自分に教えてくれます。あくまでもこの罪を他人から隠しながら、根拠の無い中傷という方法を持って神が自分に罪を償わせてくれていることを人は悟るのです。このような神の至聖なる慮りを己の身の上に経験した人は、神の御前に謙卑なること(謙遜であること)を覚えるでしょう。

 

「隣人に対する良心」とは、
隣人に他する注意深さを言います。自分の行い、言葉、そぶりによって隣人を悲しませたり、欺いたり、誘惑したりしないことです。これを行うことは、隣人を侮辱することであると知っているならば、行うべきではありません。まなざし一つで相手を傷つけることができることを知っていながら、それを行う人は、自分の良心を汚しているのです。良心は汚し続けると、藻が繁殖した湖水のように、透明度が落ちていきます。そして正しい行いとは何であるのか、悪い行いとは何であるのか判断する力が弱くなっていきます。

 一方、隣人も自分も神が創造されたものであるが故に、年齢や性別や職業に関係なく隣人に敬意を持って接する人は、良心が明らかな人です。神はこのような人の心の内に聖なる愛を植え付けられます。神が聖なる愛を植えつけられる土壌とは、偽善の無い信仰(きず)無き良心が宿る潔い心です。

 

「物に対する良心」とは、
物に対する注意深さを言います。また、節度の無い物欲を持たないことを言います。物をぞんざいに扱ったり、汚したり、腐らせたりしないこと。他人の持っている物に羨望や嫉妬の気持ちを起こさないことも含まれます。

 

◎ある聖師父は、良心という名の仮面を上手に被る罪があると言い、その罪として虚栄心を挙げています。ファリセイ人(パリサイ人)がそうであったように、善行を行うにも、斎を行うにも、祈る時にさえ他人が見ていることを好む人は、良心ではなく虚栄心に拠ってこれらのことを行うのです。

 

◎マトフェイ伝には次のように記されています。

「あなたを訴える者と一緒に道を行く時には、その途中で早く仲直りをしなさい。そうしないと、その訴える者はあなたを裁判官に渡し、裁判官は下役に渡し、そしてあなたは獄に入れられるであろう」(マトフェイ伝5章25節)。

聖師父ドロフェイと聖大ワシリイは、この箇所について次にように教えています。

「あなたを訴える者」とは「良心」のことであり、「道を行く」とは「この世を渡る」ことである。

 なぜ「良心」のことを「あなたを訴える者」と呼ぶのか。それは、私たちがなかなか良心の言うことを聴かないからである。私たちは良心がすべきであると言うことをせず、すべきでないと言うこと行う。良心は常に私たちの悪い思いを咎めるのだが、私たちはその忠告に抗う。この世に生きている間に良心と和睦することを覚えるべきである、さもないと最後の審判の日には、良心はもっとも恐ろしい証人となるであろう。

 

◎聖師父たちは、自分の良心の陰りを取り除き明らかにするもの ―― それは主の尊体と尊血(聖体拝領)であると教えている。

〔函館ハリストス正教会報2009年12月・2010年1月号より〕

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