函館ハリストス正教会

正教会読み物 ~ 大斎について

復活祭に備え、今年も大斎が始まります。

一年間を通して正教会が定めている数々の「(ものいみ)」の中でも、「大」がついて「大斎」と呼ばれるのは、復活祭前の斎だけです。それは、期間が最も長い斎であるということだけでなく、それを行う意義が重要であることを表しています。

斎には二つの側面があり、両方をバランス良く行うことが大切です。

一つは「肉体的な斎」。肉類、乳製品、卵を断ち、肉体的に節制すること。

もう一つは「聖神°的な斎(=霊的な斎)」。忿怒、妬み、謗り、見栄、傲慢など罪となる思いを退け、忍耐を学ぶこと。

サロフの克肖者聖セラフィムは、次のように教えています。

「斎や祈祷など教会で定めている規則は、それ自身が目的なのではない。これらは全て聖神°の恩寵を得るための手段なのである」。

つまり、斎は人間の霊の救いのために薦められているものであり、人間が斎のためにあるのではないということ。人間の肉体的、聖神°的な力は人さまざまですから、自分の力以上の斎を科すことは、霊にとってプラスになりません。また、「肉体的な斎」を完全な形で行ったとしても、その本来の目的である「霊の救い」を忘れていると、自分の心の中に傲慢な気持ちを生み出す(いざな)いとなる場合があります。この傲慢は、斎を守っていない人に対する軽蔑や非難の心を生み出し、行っていることは結果として「ダイエット」以外の何ものでもなくなります。「聖神°的な斎」とのバランスが不可欠なのです。

 

自分の行っている斎が正しいものであるかどうか、極端に陥っていないか(怠慢になっていないか、又は自分勝手な禁欲に走っていないか)ということについてチェックを行う場 ―― それは痛悔機密です。普段よりも自分の霊の中を注意深くチェックし、自分の信仰生活の在り様について、必要があれば軌道修正しましょう。

 

「人生の十分の一」の斎

歴史的に見ると、復活祭前の大斎については第一回全地公会(325年、ニケヤ)において、これをしっかりと守らなければならない旨が議論されていることから、既にこの頃にはハリスチアニンの信仰生活の中に大斎が根付いていたことが分かります。

正教会において復活祭の前に大斎を行うようになった理由は幾つかあります。私たちの教会の(かしら)である主ハリストスが荒野において40日間斎されたことに倣う意味がありますし、復活大祭という正教会において一番重要な祭日を迎えるために相応しい霊の準備をする意味もあります。そしてさらに、人生の十分の一の日々を普段より熱切に祈祷と斎に奉げるという意味があります。このことについて聖師父ドロフェイは次のように教えています。

「律法において神はイズライリの民に毎年得た収入の中から十分の一を神殿に奉げるように命じた。彼等の業が神によって祝福されるように。私たちは、神が私たちの業を祝福し、私たちを罪から潔めてくれるように、自分の人生の日々の十分の一を神に奉げるのである。復活祭前に斎する7週間は、土曜日と日曜日を除くと35日(奉神礼的には土曜日と日曜日は斎として数えない。)。しかし聖大土曜日は特別な斎であるので1日プラスし、復活祭当日の夜を半日とすると

36.5日となり、一年間365日の丁度、十分の一を私たちは斎のうちに過ごすこととなる」。

人間にとって365日毎日、同じ緊張感を保ち続けて痛悔と祈祷を行うことは難しいことです。日々の仕事や家庭のことなど、社会において果さなければならない責任もあります。しかし、それは、日々私たちに生命を与え、日々の業を行うことを祝福してくれる主・神のことを全く思わなくても良い理由にはなりません。主・神の私たち人間に対する忍耐と慈憐に感謝し、自分の弱さを悔い改め、祈る時間として「人生の十分の一」は決して多すぎることはありません。大斎期間を怠惰に過ごすことなく、可能な時には晩堂大課や先備聖体礼儀などのご祈祷に参祷しましょう。

聖イグナティ・ブリャンチャニノフは大斎期の信仰生活について次のように教えています。

「斎とは畑を耕すこと。祈祷とはそこに種を播くことである。両方のことを正しく行ってこそ、実りを得ることができる」。

「畑」は私たちの「霊」です。畑で汗を流して働くように、霊という畑においても霊的作業を行うことが不可欠です。罪という雑草を取り除き、聖神°の恩寵に満ちた祈りの言葉で肥料を与え、善と悪の仕分けに忠実であることなど行うべき作業は尽きません。

主・神が私たちに力を与えられ、実り豊かな大斎を過ごすことができますように。

 〔函館ハリストス正教会報2010年2月・3月号より〕
 (司祭ニコライ・ドミートリエフ)

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