函館ハリストス正教会

正教会読み物 ~ 復活祭について

私たちは今年4月4日、正教会の一年間の奉神礼サイクルの中で最も大きな祭日である復活祭を迎え、今、光明週間の喜びの中にあります。正教会の祈祷文では復活祭を「祭りの祭り、祝いの祝いなり」(復活祭早課のカノン第八歌頌)と歌い、聖使徒パウエルは「もしハリストス復活せざりしならば、我等の伝うる所空しく、爾等の信もまた空し」(コリンフ前書15;14)と言っています。私たち正教のハリスチアニンの信仰の中心は、主の復活にあります。

かつて最初の人間、アダムとエヴァが罪を犯し、楽園から追放されて以来、人間はこの世の限りある生命を終えた後は朽ちる者でした。しかし、主・神の子が人間の体をとって降誕され、神でありながら人間の体のまま十字架に釘打たれ、人間の罪を神が自分の身に受けて肉体において死し、三日目に復活されたことによって、人間には再び天の国に戻る道が開かれたのです。

主ハリストスが復活し、ご自分の肉体の死をもって死を滅ぼした(「ハリストス、死より復活し、死をもって死を滅ぼし、墓に在る者に生命を賜えり」[復活祭のトロパリ])と歌う一方で、私たちの周りで人が死んでいくのはどうしてだろう、と思う人もいるかもしれません。それは、主ハリストスが復活される前の人間の死は、永遠の死であり暗闇であったのに対し、主ハリストスの復活後の人間の死は、主ハリストスを神と信ずる者にとっては、最後の復活(最後の審判)までの一時的な眠りに過ぎないという意味です。私たちの元祖アダムとエヴァの時代に人間の中に入った「罪」を自分の中に保ち続けている私たち人間の肉体は、永遠の天の国に入る前に一度は滅びなければなりません。私たちは、現在生きている間に着ている肉体のままで天の国に入るのに相応しくないのです。しかし、それは永遠の死ではなく、最後の復活の日までの暫時の眠りなのです。私たちが今年4月4日に復活祭を迎える8日前、3月27日(土)に正教会は「ラザリのスボタ」と呼ばれる奉神礼を行ないました。死後四日経っていたラザリを主ハリストスが墓から復活させた出来事(イオアン伝11;1~45)を記憶するものですが、これはまさにこの世の最後に来る「万人の復活」の予象です。

神が造られた時には、楽園に住むものとして置かれたのにもかかわらず、罪を犯し、楽園に住む者に相応しくなくなった哀れな人間を、また天に帰すために払われた代価 ―― それは、神の子ハリストスの降誕であり、受造物である人間からの裏切りであり、十字架上の死でありました。これほどの代価を払ってまで、人間を救おうとされた神の大きな愛を前にして私たちが痛感することは、人間の霊の救いは、人間の努力によって手に入れられるものでは到底ないということ、主・神の憐れみによってのみ人間は救われるのだという真実です。

それなのに、人間は時として、主・神の前で如何に不遜な態度をとることでしょう。恰も、自分の人生は自分の手中にあるかのように。人間は自分の不完全さを認識した時、初めて主・神の前に従順謙遜になることができます。これが真福九端の最初にある「心の貧しきものは(さいわい)なり、天国は彼らのものなればなり」の意味です。救いの道の第一歩は、自分の心の貧しさを認識することです。これがなければ正しい信仰は在り得ません。正教会の聖師父たちが「従順謙遜の無い信仰は在り得ない」と言っているのはこの意味です。

私たち人間への神の大いなる憐れみと愛に対して、私たちは何をもって応えることができるでしょうか。私たちはこの愛を敬虔と畏れをもって受けとめ、感謝して主に喜ばれる道を歩むべきです。「しなければならない」から行なうのではなく、主・神を悲しませることを恐れ、主の道を自分の人生の道として全うするべきです。

正教会は人間の本分を次のように教えています。「人間の本分とは、神を認識し、神に倣い、神の如くなることである」。天地創造の時に人間も創造された主・神は、人間にこのような本分を与えられたのです。喜びに満ちて自分の本分を全うする生き方ができる人は、真に(さいわい)な人です。なぜならば、天国とはどこか空の上に在る空間なのではなく、人間の霊の中に在る状態なのです。正教会の聖師父たちは次のように教えています。「この世に生きているうちに天国のことを思わなかった霊が、死後、天国に行くことはない」。洗礼を受け、主ハリストスの教えに従うことは天国への確実な道です。なぜならば主ハリストスの復活こそが、天国への鍵だからです。

〔函館ハリストス正教会報2010年4月・5月号より〕

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