函館ハリストス正教会

正教会読み物 ~ 悔い改めについて

今回は、聖師父の一人であるシリヤの聖エフレムの教えの書の中から、「第十章 悔い改めについて」という箇所を読んでみましょう。

「シリヤの聖エフレム」と聞けば、復活祭前の大斎中に、伏拝と共に読まれる「聖エフレムの祝文」が思い起こされますが、あのような短い祈祷文に凝縮された優れた祈りを行なった聖人が、「悔い改め」について何を教えているのでしょうか。

実は、上記の教導書の第八章には、「痛悔について」という教えがあるのです。「痛悔」という言葉は、私たちは「痛悔機密」という機密の名前として知っています。「痛悔に行く」という言い方もよく耳にします。

「悔い改め」と「痛悔」とは同じではないのでしょうか。

ロシア語では「痛悔」を「исповедь(イースポヴェチ)」 と言い、「悔い改め」を「покаяние(パカヤーニエ)」と言います。

聖書の中に出てくる前駆授洗聖イオアンは、「悔い改めよ、天国は近づいた」と言って、「悔い改め」という言葉を使っています。「悔い改めの実を結ぶ」という言い方もあります。

日本語では「痛悔の心」という言い方もなんとなく成り立ちますが、正確に言えば「悔い改めの心」、或いは「悔い改める心」です。

一方、「исповедь(イースポヴェチ)(=痛悔)」という言葉は、「ис(イース)(=出す)」という部分と 「поведь(ポヴェチ)(=知らせる)」という部分から成り立っている単語で、「口から出して知らせる」という意味です。痛悔機密の

際に、証人である神父の前で、自分の罪などを口に出して言うことを指します。

つまり「悔い改め」という言葉は、主に「悔い改める」という心の動きやプロセスを表しており、「痛悔」という言葉は、痛悔機密において行なう事柄を指しています。

しかし、私たちが経験で知っているとおり、「悔い改め」と「痛悔」は何の関係もない別物なのではなく、「悔い改め」無くして「痛悔」は在り得ないのです。どのような「痛悔」ができるかは、痛悔の場に立つ前に、心の内でどのような「悔い改め」が為されたのかということと深い関係があります。

パニヒダの祈祷文に「人一人も生きて罪を行わざる者無し」とあるように、聖人と呼ばれるような人たちにしても、この世に生きて罪を行なわなかった者なのではなく、「悔い改め」のプロセスと「痛悔」の仕上げを最大限に活用した者であると言うことができます。

「痛悔に行く」とひとことで言っても、初回から完全な痛悔を行なえる人はいません。聖神°的な経験を積み重ね、神父に教導してもらいながら痛悔の質を向上させていくのが正教会の信仰生活です。そしてそのために欠かすことのできない霊的作業が「悔い改め」です。

 

それでは、聖エフレムの教導書から、「悔い改めについて」の全文を要約・翻訳したものを見てみましょう。(分量的に要約しましたが、文章表現はそのままです)。

神・父の(ふところ)から(くだ)り、私たちのために救いの道となられた主が、ご自分の(さいわ)いにして神聖なる声をもって、私たちに悔い改めることを次のように教えられた。

「わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マトフェイ9;13)。「健康な人に医者はいらない。いるのは病人である」(ルカ5;31)。

もし、これを言ったのが私だったなら、聞かなくてもよい。しかし、主ご自身がこれを言っているのに、なぜ、この言葉を軽んずるのか? どうして自分の命についてそれほど怠慢なのか? もし、自分の内に思いと行いにおける傷があると認識しているなら、どうしてそれをそのまま放置しておくのか? なぜ医者を恐れるのか? 主は痛みのわからない、憐れみのない医者ではない。荒療治をする医者ではない。主に近づけ。主がいかに仁慈なる者であるか、わかるであろう。主はあなたのために神・父の懐から(地上に)降誕して人体をとられたのである。あなたが恐れずして主に近づくことができるために。そしてあなたの諸々の傷を癒すために。愛をもって、憐れみをもって、主は、全ての人間を自分のほうへ呼んでいる。

心の内に罪を感じたなら、主のもとに行け。そこで完全な癒しを得ることができる。

罪の重荷を下ろし、祈れ。放置しておいたが故に重くなった傷を涙で洗え。悔い改めの涙 ―― これこそが最上の薬である。主は、あなたの悔い改めの涙と悔い改めの嘆息を待っているのだ。最上の薬である悔い改めの涙と悔い改めの嘆息を自ら携えて、主に近づき来たれ。

悔い改めの門は開かれている。閉じる前に入れ。あなたの怠惰を待っている時間は無い。あなたが悔い改めの門に入る努力をしないならば、門はいつまでも開いたまま、不遜なあなたを待っているわけではない。(たましい)以上に大切なものがあるというのか? 罪を抱えたまま、霊のことを軽んずる者よ、あなたは悔い改めを受け入れるこの門を主がいつ閉じられるのかを知らない(この世のあなたの命がいつ終わるのか知らない)。天に備えられてる住まいに入るために、急げ。

主の声を聴け。

「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい、。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの霊に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マトフェイ12;28~30)。

主は、御前に伏す者を喜んで受け入れる。あなたの思いを全て知っている神である。

もし、癒しを求めて来るものがあれば、主はその心の内にあるものと内的な努力を見ておられる。

「なぜこれほど長い間、悪魔に仕え、自分の意思をもって、主宰である神を軽んじてきたのか」と言って、来た者を非難する主ではない。今さら遅いということはないのである。主に至るまでどれほどの時間がかかったかということを見ておられるのではなく、主の前での従順な悔い改めの涙と嘆息を見ておられるのである。主宰である主・神は、思いと行いにおける全ての過ちを瞬時に赦すことができる。罪ある者の霊を天に迎えることができたとき、天において天使らの喜びは限りない。

世は過ぎ去り、世に在る全てのものも過ぎ去る。そして全てが精算されるときが来る。

何が善であるのか知っていながら、悪を行い、神の愛と天の国を軽んじ、地上のものに心奪われている私たちにも精算の時が来る。

最後の審判において、永遠の火に投げ込まれようとしている時、この世の金品はあなたを助けてはくれない。あなたの友も肉親の父親も助けてはくれない。各自が自分の信仰と行いによって自分の居るべき場所に定められるのである ―― 永遠の命のあるところ、または永遠の火のあるところへ。

多くの義人、克肖者たちは自分の自由な意思をもって、神の教えに恃みを置き、全ての朽ちるものよりも神を愛し、神・聖神°の豊かな恩寵を得て喜びのうちに神を讃美してきた。彼等は至聖三者と天使等の誉れであり、天国の誉れである。

しかしまた、多くの人々は、地上の生活とそこにある全ての朽ちるものをこよなく愛してきた。彼等の知性は、この世のものにしか反応しない。あたかも畜生が餌を求めて肉体的な満足を得るが如く。あなたは、自分が人間として造られたことを忘れたのか? 神は人間に智恵と判断力を与えたではないか。自らの愚かさで、畜生に成り下がるべきではない。

警醒(けいせい)せよ。我に帰れ。あなたを地から天に上げるために、至上の神が天から地に降られたことを悟れ。天に上るために相応しい衣も灯りも持たずに、己の不遜ないい加減さを持って天の国に入るとでも言うのか。そのような者が聞く言葉はこれである;

「友よ、どうしてあなたは礼服をつけないで、ここにはいってきたのですか」(マトフェイ22;12)。天の国に入るために相応しい思いと行いの実りを携えていない者に、王は次のように言うであろう;

「この者の手足をしばって、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣き叫んだり、歯噛みをしたりするであろう」。招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない(マトフェイ22;12~13)。

恐ろしくないのか? 主が再び来られる日は近い。その日、栄光のうちに雲に乗って来られる主ハリストスを大いなる喜びと感動を持って迎えることができる者は誰か? 相応しい者は、光栄のうちにこの日を迎え、不虔(ふけん)な者は恥を得るであろう。

その日には、隠れたものが、全て明らかになる。天使、預言者、使徒、聖人らの前に全てはさらけ出されるであろう。

主宰なる主よ、爾の僕の悔い改めを聴き入れ給え。恩寵と寛容とを持って不虔な僕を救い給え。

主ハリストスに光栄を帰す。アミン。

 

以上は、シリヤの聖エフレムの教え「第十章 悔い改めについて」を、テキストの分量にして四分の一ほどに要約したものです。

聖師父の教えの力強さ、聖神°的な世界を説く際の表現の正確さに圧倒されます。

階梯者聖イオアンも、その教導書「階梯」の中の「第五章 悔い改めについて」の中で深い教えを遺しています。「悔い改め」について教えを遺していない聖師父は無いと言っても過言ではないでしょう。なぜならば「悔い改め」は、正教の信仰生活の核心だからです。彼らの教えは、「(たましい)を救う」という目的に対して揺らぎ無く、その道において練達した人のみが語ることのできる言葉です。

私たちは、これらの聖師父たちの祈りと経験に基づいた深い教えに触れ、感動するだけで終わりにしてしまうのでしょうか、それとも自分の人生において実践するのでしょうか。

「悔い改め」は「愛」と同じく、信仰の核心であるがゆえに、「しなさい」と強いられて行なっても意味がありません。「愛しなさい」と強いられて愛することができないのと同じです。主・神が人間に与えれらた「自由な意思」を用いて、自分の内からその気持ちにならなければ意味がありません。

「主よ、私には悔い改める力が足りません。悔い改める力を与えてください」と祈りましょう。悔い改める勇気を頂き、天の国に入るために相応しい潔い霊を自分の内に改めましょう。

 〔函館ハリストス正教会報2010年6月・7月号より〕

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