函館ハリストス正教会

正教会読み物 ~ 嘘をついてはいけないことについて

嘘とは真実に反することであり、嘘をついてはいけないことは子供でも知っています。日本では「嘘は泥棒の始まり」という諺もあるくらい悪いことです。ところが一方では「嘘も方便」という諺があり、これはあたかも嘘をつくことを正当化しているかのようです。
正教会の聖師父や聖人たちは「嘘」についてどのように教えているのでしょうか。

まず、「嘘も方便」という考え方について、オプチナの克肖者聖アンヴロシイは「どのような嘘も言ってはいけない。相手を傷つけたくないという気持ちから真実を歪曲して言う嘘も罪である」と教えています。これは、相手を傷つけても真実を言うべきだと教えているのではなく、真実を歪曲する言葉を口にするよりは、黙っていたほうが良いということを教えているのです。

「偽善は嘘の母である。偽善は嘘を生み出す」と記しているのは階梯者聖イオアンです。彼は嘘について次のように書いています。

  • 「神を恐れる心を己の内に持つ者は、嘘を避ける。己の内に買収不可能な裁判官を持っているからである。その裁判官とは良心である」。
  • 「鉄と石がぶつかると火を生ずるように、多言と冗談は嘘を生み出す」。
  • するつもりがないことを約束したり、誓ったりすることも嘘になります。
  • 「嘘は愛の心を萎ませ、虚しい誓いは神を遠ざける」。

聖師父ドロフェイは著書『21の教え』の中の第9の教えとして「嘘をついてはいけないことについて」を記しています。彼が修道院長としての立場で修道士たちに向かって語っているものです。要約して紹介しましょう。

あなた方に嘘について少し考えてもらいたいと思う。というのは、あなた方が自分の口に注意を払わないことが原因で、多くの罪を犯しているのを見ているからである。いつも言っていることだが、人間が一つのことにおいて良い習慣を持つか、悪い習慣を持つかはその人の努力次第なのだ。 だから、嘘に束縛された生活を送らないように大いに注意してもらいたい。嘘をつく人は神から遠い。聖書の中で神ご自身が「私は道であり、真理であり、命である」(イオアン14;6)と言っておられるのであるから、真理をくつがえす嘘の頭(かしら)は悪魔である。偽りを言う者は悪魔から出ているのである。嘘は私たちを神から遠ざけ、悪魔と親しませる。 嘘には三つの種類がある。一つは思いにおける嘘、二つ目は言葉における嘘、三つ目は自分の生き方による嘘である。

思いにおける嘘とは、自分の勝手な判断や予測によって、本当かどうかわからないことを決めつけてしまうことである。身近な人に対して、あらぬ疑いをかけることもこの類である。例えば、友人が誰かと話しをしているのを見て、「自分のことを話しているのではないか」と疑ったり、誰かが何か言うと「私に対する非難ではないか」と疑う。 周囲で起こることについていちいち「あの人は私に対して言った」、「私に対してした」と決めつけるのである。本当のことは知らないのにも関わらず。
このような疑心暗鬼から生じる罪は、好奇心、悪口、敵意、誹謗中傷である。
また、よく知らない人について、素振りや外見だけでその人の性格や職業について思い込みをすることもこの類である。
このような人は、時として自分の予測が当たりでもすれば「自分の勘は正しい」と確信するのであるが、これは大きな落とし穴である。
このような習癖を持っている人は、真実が見えず、全く存在しない事象や在り得ないことを真実のように勘違いしていることに気がつかない。真直ぐなものも曲がって見え、曲がっているものが真直ぐに見えるのである。
このような罪に陥らないように気をつけなければならない。

言葉における嘘とは、例えば出席しなければならない場所に、怠惰ゆえに欠席した場合、ひと言謝る代わりに「用事ができた」、「熱があった」などと本当ではない理由を挙げ連ねること。
また、常に言い訳によって自分を正当化し、相手の言い分には耳を傾けないこともこの類である。 また、何か欲しいときに、素直に欲しいと言わずに、人聞きの良い理由を捏造してそれが自分に必要であると表現することも言葉による嘘。
人間が嘘を言うときは、赦罪したくない時、自分の欲望を満たしたい時、何かを得たい時など、見栄や欲望が原因である。
次々と言葉を変えて嘘ばかり言う人は、本当のことを言った時にも、周囲の人はそれを信じない。もし、自分が嘘をついてしまったなら、それは自分の内に無関心に放っておくべきではない。神の前に涙を流して悔い改めるべきである。また、このようなことはしばしばあってはならない。人生の中でどうしても真実ではないことを言わなければならない稀有な必要に迫られた時は、心の中で神に赦しを請いながら言うのであれば、赦されるであろう。しかしそれなりの報いは受けなければならない。

自分の生き方による嘘とは、自分の本来の姿を隠して何かのふりをすること。例えば本当は放蕩者なのに禁欲的な人間のふりをすること。 または、本当は金銭に対する執着心が強いのに、慈善家だと言われたいがために、寄付に関心があるかのようなふりをすること。
もし、周囲の人を誘わないために、自分の欠点を敢えて表にさらけ出さないという配慮のもとにこれを行なうのであれば、罪を犯しながらも、善行と無縁ではない。なぜならば自分の非を自覚することは従順謙遜であり、他人を慮ることは慈憐であるからだ。しかし、そのような意図とは無関係に、自分の利己心から意識して何かのふりをする、または、二重人格的な人生を送ることは罪である。

嘘から離れよ。 自分の内に真実を守ることを覚えよう。「私は真理である」と自ら言われた神と一体になるために。

以上、聖師父ドロフェイによる「嘘をついてはいけないことについて」の教えの要約です。思いと言葉と生き方による嘘の中身を分析してみると、一般社会ではあまり嘘として認識されていない人間の罪についても、きちんと明確に“仕分け”されています。私たちは、社会性という仮面の下で「方便の嘘」にいかに日常的に慣れてしまっているかがわかります。それが神から自分を遠ざけている原因になっているにも関わらず。虚栄心、物欲、傲慢は他の諸々の罪の原因でもあります。これらの罪の対極にあるのが従順謙遜な心です。自分の霊(たましい)が常に真実であること善であることに留まることができるよう、神に祈り、努力しましょう。

〔函館ハリストス正教会報2010年10月・11月号より〕

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