函館ハリストス正教会

正教会読み物 ~ 聖人について

私たちハリスチアニンは、洗礼を受ける時に「聖名」を頂きます。聖名は、正教会の暦にある「聖人」の名前の中から選びます。男性には男性の聖人の名前の中から、女性には女性の聖人の名前の中から聖名を選びます。聖人は、私たちと同じように、この世の中で生きていた人たちです。国籍や時代や生活環境は異なっても、人間として私たちと同じように食べ、飲み、働き、悩み、また病気や罪とも無縁ではありませんでした。

では、何が彼等を「聖人」としたのでしょうか。「聖人」と言われる人々は何が違うのでしょうか。正教会は「聖なること」、「聖人」について何を教えているのでしょう。

先ず「聖」という概念について、神学者パウエル・フロレンスキー神父は次のように語っています。

「私たちが書、機密、油、…と言うとき、また職などと言うとき、これらのものが、この世のものではないものと関係していることを前提としている。これらのものは、この世に存在するが、この世から出たものではない。正教会において「聖」という言葉が付くものを挙げれば沢山あるが、それらはいづれもこの世の日常的、通俗的、卑俗的なものと切り離して認識するべき事柄である。聖使徒パウエルが、新約聖書の公書の中で、同時代のハリスチアニンたちを「聖徒」と呼んでいるのは、まさに彼等を全人類の中から選別しているのである」。

「聖なるものには如何に接するべきであるか」という観点は、正教会の伝道において重要なポイントの一つです。聖なるものを私たちの日常的、通俗的、卑俗的なレベルに引き降ろして理解しようとするのではなく、私たちの思いが聖なるものに昇っていかなければなりません。

この認識を信徒の中に呼び起こすために、亜使徒日本の大主教聖ニコライは正教会訳日本語聖書をテーマにして次のように語っています。

「私は、福音書や奉神礼用諸書の翻訳が、大衆の教育程度まで降りてゆくべきではなく、逆に、信者たちが福音書や聖体礼儀用諸書のテキストを理解できるところまで昇ってゆくべきだと考えているのです」。

 聖書の中には次のように書かれています。

「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マトフェイ5;48)。

また正教会は人間の本分について次のように教えています。

「人間の本分とは、神を認識し、神に倣い、神の如くなることである」。

ところで聖大マカリイは「善きスタートを善きゴールと結合できる人は少ない」と言っています。つまり、聖書の教えに奮い立ち、人生の終わりに神の栄光と至福に満ちた天の国に入ろうとして信仰生活のスタートに立つ者は多いけれども、忍耐と従順を以て最後まで成し遂げるものは少ないというわけです。

聖大マカリイの言葉を引用してみましょう。

「主は呼びかけている。〔誰でも私についてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、私に従ってきなさい〕(マトフェイ16;24)。而して多くの者が天の国に入り、永遠の命を得ようと望むのであるが、虚しい利己心と決別することもできなければ、自分を捨てることもできない。それでいて永遠の命を得ようというのは不可能だ」。「多くの人が道の途中でいざないに陥る。なぜならば人間には何かしらこの世的なものを愛する習性があるので、意思が弱かったり、聖神°性において怠惰であると、この世の汚れの深みにはまる」。

一方、「善きスタートを善きゴールと結合できた人」、即ち忍耐と従順謙遜をもって神・聖神°の恩寵を得、神にも隣人にも喜ばれる人生を全うした人は、信徒の倣うべき信仰の模範として、教会が列聖し、「聖人」と呼ばれるようになります。

聖人は、肉体的には既にこの世に居ませんが、霊的には神と人間との間の「転達者」として働いています。つまり、霊的により優れた先達が、霊的にひ弱な後輩の信仰生活を援けてくれるのです。

信仰生活のスタートである洗礼の際に、聖人の名前を頂くのは、信仰生活の初心者を信仰生活において練達した聖人に援けてもらうためです。聖名は単なる名前だけではありません。しばしば、自分の聖名の聖人(=庇護聖人)がどのような人生を送ったのか無関心な人がいます。もし今までの人生において庇護聖人の存在をないがしろにしてきたならば、早速聖人伝を開いて読みましょう。またその聖人の記憶日(多くの場合、その聖人が永眠した日)を覚えましょう。正教会の敬虔な信徒であるならば、自分の庇護聖人に対する相応の敬意、尊崇の気持ちを持って然るべきです。教会で行われる聖名祭の祈祷に与ったり、自分の聖名日に感謝祈祷をお願いするのも善いことです。

また、聖人伝を読んで、さまざまな聖人の生涯を知るようになると、自分の庇護聖人以外にも転達をお願いしたい聖人がたくさん出てきます。日本の正教会信徒にとっては亜使徒日本の大主教聖ニコライはまさにそのような聖人の一人でしょう。転達をお願いするときには、「我等のために神に祈り給え」と祈ります。

ちなみに正教会では、主ハリストスと生神女マリヤに対してのみ「我等を救い給え」と祈ります。生神女マリヤは人間ですが、聖人とみなしません。従って生神女マリヤから聖名をもらうことはありません。生神女マリヤは「ヘルヴィムより尊くセラフィムに並びなく栄え」と歌われる通り、「至聖なる神の母」として神使よりも上に置かれているのです。

正教会では、信徒である私たち一人ひとりが「使徒」となるべく生きることを求められています。私たち一人ひとりが自らの努力と神・聖神°の恩寵に依って「聖人」となる可能性を秘めているのです。

〔函館ハリストス正教会報2010年12月・2011年1月号より〕

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