函館ハリストス正教会

正教会読み物 ~ 大斎(たいさい)を迎えるにあたって

今年の復活祭(4月24日)に備え、3月7日(月)から大斎が始まります。(編注:2011年)

一年間を通して正教会が定めている数々の「(ものいみ)」の中でも、「大」がついて「大斎」と呼ばれるのは、復活祭前の斎だけです。それは、期間が最も長い斎であるということだけでなく、それを行う意義が重要であることを表しています。

斎には二つの側面があり、両方をバランス良く行うことが大切です。

一つは「肉体的な斎」。肉類、乳製品、卵を断ち、肉体的に節制すること。

もう一つは「聖神°的な斎(=霊的な斎)」。忿怒、妬み、謗り、見栄、傲慢など罪となる思いを退け、忍耐を学ぶこと。

サロフの克肖者聖セラフィムは、次のように教えています。

「斎や祈祷など教会で定めている規則は、それ自身が目的なのではない。これらは全て聖神°の恩寵を得るための手段なのである」。

つまり、斎は人間の霊の救いのために薦められているものであり、人間が斎のためにあるのではないということ。人間の肉体的、聖神°的な力は人さまざまですから、自分の力以上の斎を課すことは、霊にとってプラスになりません。また、「肉体的な斎」を完全な形で行ったとしても、その本来の目的である「霊の救い」を忘れていると、自分の心の中に傲慢な気持ちを生み出す(いざな)いとなる場合があります。この傲慢は、斎を守っていない人に対する軽蔑や非難の心を生み出し、行っていることは結果として「ダイエット」以外の何ものでもなくなります。「聖神°的な斎」とのバランスが不可欠なのです。

自分の行っている斎が正しいものであるかどうか、極端に陥っていないか(怠慢になっていないか、又は自分勝手な禁欲に走っていないか)ということについてチェックを行う場 ―― それは痛悔機密です。普段よりも自分の心の中を注意深くチェックし、自分の信仰生活の在り様について、必要があれば軌道修正しましょう。

 

「人生の十分の一」の斎

歴史的に見ると、復活祭前の大斎については第一回全地公会(325年、ニケヤ)において、これをしっかりと守らなければならない旨が議論されていることから、既にこの頃にはハリスチアニンの信仰生活の中に大斎が根付いていたことが分かります。

正教会において復活祭の前に大斎を行うようになった理由は幾つかあります。私たちの教会の(かしら)である主ハリストスが荒野において40日間斎されたことに倣う意味がありますし、復活大祭という正教会において一番重要な祭日を迎えるために相応しい霊の準備をする意味もあります。そしてさらに、人生の十分の一の日々を普段より熱切に祈祷と斎に奉げるという意味があります。このことについて聖師父ドロフェイは次のように教えています。

「律法において神はイズライリの民に毎年得た収入の中から十分の一を神殿に奉げるように命じた。彼等の業が神によって祝福されるように。私たちは、神が私たちの業を祝福し、私たちを罪から潔めてくれるように、自分の人生の日々の十分の一を神に奉げるのである。復活祭前に斎する7週間は、土曜日と日曜日を除くと35日(奉神礼的には土曜日と日曜日は斎として数えない)。しかし聖大土曜日は特別な斎であるので1日プラスし、復活祭当日の夜を半日とすると36.5日となり、一年間365日の丁度、十分の一を私たちは斎のうちに過ごすこととなる」。

人間にとって365日毎日、同じ緊張感を保ち続けて痛悔と祈祷を行うことは難しいことです。日々の仕事や家庭のことなど、社会において果さなければならない責任もあります。しかし、それは、日々私たちに生命を与え、日々の業を行うことを祝福してくれる主・神のことを全く思わなくても良い理由にはなりません。主・神の私たち人間に対する忍耐と慈憐に感謝し、自分の弱さを悔い改め、祈る時間として「人生の十分の一」は決して多すぎることはありません。大斎期間を怠惰に過ごすことなく、可能な時には晩堂大課や先備聖体礼儀などのご祈祷に参祷しましょう。

ところが、このような時、人間が主・神の方へ向かって歩むのを阻止したい者がいます。悪魔です。悪魔は人の心の中に様々な誘惑の種を撒き散らします。その誘惑の一つとして、「忙しい」という思いがあります。

もちろん一日は24時間ですから、あれもこれもこなすことは不可能です。あれを行うのかこれを行うのか、取捨選択に迫られる時があります。

日曜日に教会に行くのか、それとも他のことを行うのか。しかしある種の人たちにとって、これは取捨選択するべきことではありません。自分の生活の中で何が最も大切なのか、何が二番目に大切で、何が三番目に大切なのか、位置付けが整理できている人は、迷うことなく教会へ行きます。そしてそれが習慣となっています。

何故ならば、自分を造られた神、自分の周りの世界を造られた神、自分を今日も生かしてくれる神、今日も自分に働く元気を与えてくれる神…。その神に教会に行って感謝せずにいられましょうか。明日からの生活のためにまた援けをお願いし、祝福を頂くために祈らずにいられましょうか。「忙しい」と言って教会に行かずに行う仕事は、もし神が与えてくれなかったら無かったはずのものです。

人間がこの世に生まれてくるのも、人間がこの世から去っていくのも、自分の計画によって生まれてくるわけでなく、また去っていくわけでもありません。

私たちが生まれた時に、私たちが持っていたものは「神から預かった身体」であり、「神から預かった才能」です。この暫時の世を渡る間、神から正しく管理するために預かったものです。

それを「私の人生」、「私の仕事」、「私の地位」、「私の…」と、あたかも「私」にこれらのものを自由に管理し、計画する権限が属しているかのように人間に思い違いをさせるのも悪魔の働きです。神から預かったものを「自分のもの」とする“傲慢”です。自分に全てを与えてくれた神を、あたかも都合が悪いものであるかのように脇へ押しのける“傲慢”です。

自分の人生が神と関係のない「私のもの」だと言うならば、それは凡そ正教とはかけ離れた生き方です。

「正教の信仰とは何?」、「正教の教えとは何?」 ―― 今からでも遅くはありません。その答えは教会に参祷することによって得ることができます。

亜使徒日本の大主教聖ニコライは明治23年の公会で日本の信徒たちに次のように言っています。

「勉強と祈祷と謙遜とは各肝銘して必ず忘る可からず。且つ之を行うべし。然せば神必ず我等を助け給わん」。

「正教会」とは「しく神を讃美する教会」という意味です。正しく神を讃美するとはどういうことなのかを教会で学び、祈り、人生において謙遜をもって実践することが正教会信徒の生き方です。

大斎期は、自分の今までの信仰生活の在り方を見直し、軌道修正するために良い機会です。

神が私たちに力を与えられ、実り豊かな大斎を過ごすことができますように。

 〔函館ハリストス正教会報2011年2月・3月号より〕

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