函館ハリストス正教会

正教会読み物 ~ 函館と「日本の聖ニコライ」

2011年7月14日は、亜使徒日本の大主教聖ニコライが、初めて箱館に着任してから150年にあたります。聖ニコライの生涯や偉業について研究されたものの中から、ここでは、函館と関わりのあるエピソードを幾つか取り上げてみましょう。

1861年7月14日、修道司祭ニコライは在箱館ロシア領事館附属聖堂の管轄司祭として箱館に着きました。ニコライが箱館に来たとき、現在の函館正教会の敷地には既に聖堂がありました。「箱館復活聖堂」です。1860年に初代ロシア領事ゴシュケヴィッチが建てた日本で最初の正教会の聖堂でした。この元町の場所もロシア領事館のためにゴシュケヴィッチが奉行所と粘り強く交渉した結果得たものでした。

自分も司祭の家庭で育ち、ペテルブルク神学アカデミーを卒業していたゴシュケヴィッチは、職務は外交官であっても、この国での宣教の可能性を見極め、配慮することを忘れませんでした。彼は領事館付属聖堂の管轄司祭として着任する人間に、日本での宣教師として相応しい人物であることを求めたのです。彼は本国へ手紙に次のように書いています。

「神学大学の課程を終えて、単に宗教的活動のみでなく、学問においても有能であり、さらにまた日常の生活によって、日本人に対してのみならず当地に居留する外国人にも、わが国の聖職者について良い印象を与えることのできる、そのような人物でなければならない」。

このようなゴシュケヴィッチの願いを聞き入れて主・神が日本へ遣わされた人物 ―― それが当時24歳の修道司祭ニコライでした。

当時の聖堂の鐘楼には大鐘が一つ、小鐘が四つ、合計五つの鐘がありました。ニコライの箱館時代の同労者として誦経者サルトフがいますが、サルトフが箱館に着任したのは1863年のことです。ニコライは、後に東京に移ってから、ロシアの知人に宛てた手紙の中で、箱館時代には自分で五つの鐘を鳴らしたこともあった、自分で鐘を鳴らして入堂し、自分で鐘を鳴らして退堂していたのだと手紙に書いています。

私たちは『宣教師ニコライの全日記』(中村健之介監修)によって素晴らしいニコライの偉業と聖神°性に触れることができるのですが、その殆どの部分が箱館時代の後、即ち東京に移ってから永眠するまでの時代です。肝心の箱館時代の日記は、1865年に当時隣にあったイギリス領事館から出火した火事がロシア領事館まで及び、焼失してしまったのです。

ニコライの箱館時代は、日本語と日本研究に明け暮れた時期でもありました。ニコライに日本語を教授したことのある新島襄の日記には「古事記」や「大伴金道忠孝図会」 を一緒に読んだと記されています。これは1864年のことですから、ニコライが日本に来てから3年後のことです。後の奉神礼諸書の翻訳においても、ニコライの人並み外れた語学力には驚かされますが、ニコライは優れた宣教師であると共に、優れた日本学者であったと言われる所以です。

1868年に、ニコライは最初の日本人信徒三名の洗礼を行います。パウェル澤邊琢磨、イオアン酒井篤礼、イアコフ浦野大蔵です。ニコライはこのタイミングで、一時帰国の祝福を得ると、ロシアに帰り、日本伝道のため宣教団の組織を許可され、掌院ニコライとなって、再び函館に戻ります。

この頃、ニコライの下に集い、正教やロシア語を学んでいた者は、殆どが仙台藩士でした。後に、日本正教会の司祭や伝教者となってニコライの伝道活動を支えた人々です。ニコライがロシアから持ち帰った石版刷の印刷器を用いて、天主経、日誦経文、東教宗鑑、教理問答等を印刷し始めたのもこの頃のことです。

1872年頃になると、他国の領事館が東京近辺に集まる中、時代の流れの中で函館のロシア領事館も東京に移り、領事館の敷地は宣教団が引き継ぐこととなります。ニコライ自身も宣教団の中心を東京に置くべく、函館の教会の管轄を修道司祭アナトリイ師に委ね、東京に移ります。

その後は、1881年、1891年、1898年などの巡廻の折りに函館を訪れています。函館を訪れた際に聖堂の壁や垣根の修理や塗装が必要だと判断すると、自ら職人を呼んで見積もりをとり、発注するなど、細やかな配慮をしています。

1902年頃になると、一旦、函館に用が無くなったロシア領事館が再び時代の流れの中で函館に所在地を求めるようになります。領事たちは東京のニコライを訪れて、函館元町の宣教団の敷地(過去のロシア領事館の敷地)に再び領事館を建てることを要求しましたが、ニコライは頑として首を縦に振りませんでした。風紀が乱れることを心配したのでした。まだ日本に現れたばかりの正教の聖神°性の若い芽を聖なる姿で守るためには、然るべき環境が必要であるとニコライは考えました。この結果、1902年、時の副領事ゲデンシュトロムは船見町125番地(現在の「旧ロシア領事館」所在地)を購入し、領事館を建設することになります。

1907年(明治40)の大火で、聖堂をはじめとする境内地の全ての建物が焼失すると、ニコライは頻繁にロシアに手紙を書いて、函館の聖堂を再建するための献金を方々に頼むようになります。

「ニコライの日記」からのほんの一例ですが、次のような記述があります。

「1911年3月28日(4月10日)、月曜日。モスクワのクセニヤ・フョードロヴナ・コレスニコワに手紙を書き、函館聖堂のための献金をお願いした。/1911年3月31日(4月13日)、木曜日。モスクワのモジャイスクの主教ワシリイ座下に手紙を書いた。「函館聖堂のための献金を誰にお願いしたらよいでしょうか。ご助言をお願いします」。/1911年4月1日(14日)、金曜。サンクト・ペテルブルクのアナスタシヤ・ペトローヴナ・シネリニコワ、サンクト・ペテルブルクのマトリョーナ・チモフェーエヴナ・コジミナ、およびカザンのパウェル・ワシーリエヴィッチ・シチェチンキンに、手紙で函館聖堂のために献金をお願いした」等々。ニコライ以外に誰がこれほどまで函館の聖堂のために奔走してくれたでしょうか。この呼びかけに対して、既にニコライ永眠後となりましたが、多額の献金を施したシネリニコワ姉は、ニコライを大変尊崇していた人で、その頃は既に78歳になっていたようですが、ニコライの写真を沢山収集し、ニコライの伝記をロシア語で書いたものを読みたいと言っていたという記述が残っています。

現在の聖堂は、ニコライが永眠して4年後に建てられたものですが、生前のニコライの情熱と人徳に依って建てられたものであると言っても過言ではありません。

今、その聖堂には聖人に列聖されたニコライの不朽体を納めたイコンが置かれています。そして今日もなお聖ニコライがここにおられるかのように、私たちはその庇護と転達を身近に感ずるのです。

        〔函館ハリストス正教会報2011年6月・7月号より〕

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