函館ハリストス正教会

正教会読み物 ~ 祈りについて(2)

隣人のために祈る

私たちは祈祷の中で、自分の(たましい)の救いについて祈るだけでなく、自分の家族のため、親しい人々のため、知人のため、敵対する人のため、全ての人々のために祈ることが必要です。

他の人の祈りによって、別の人の苦難が和らいだり、危険から回避できた例は枚挙に暇がありません。

神学者グリゴリイ(✝390年頃)の聖伝の中に次のような話があります。若い時、地中海を航海していて嵐に遇い、何日間も陸が見えず、船は殆んど壊れ、救われる望みを失いかけた時、祈りの中で、海岸に立っている母親を見たのでした。後で判ったことは、その時刻に息子の危険を感じた母親が熱切な祈りを奉げていたのでした。聖グリゴリイは、自分が海難から救われたのは、母親の祈りのおかげであったことを生涯忘れませんでした。

このように、「自分が今、こうして在るのは、隣人の祈りのおかげである」と感ずる例は、決して「昔の」「聖人の場合」に限られた話ではなく、「現在でも」「私たちの身」において具体的に経験することです。

主・神は、私たちの祈りが自己中心的なものに終始せず、隣人の救いに関わることを望んでいます。人間は自分の言葉や行動によって与えることができる以上の力を、祈りによって隣人に与えることができるのです。

永眠者のために祈る

私たちの住んでいる地上の世界から去った隣人のためにも祈る必要があります。地上で生活している間、人間は霊の上に肉体を衣服のように着ていますが、やがて肉体は朽ち、霊だけが別の世界に移ります。そこで霊は地上での人生において行ったこと、思ったこと全てについて、その善悪を問われることとなります。その審判は憐れみ深く且つ公正なものです。悪を行い、痛悔しなかった霊には相応の罰が与えられます。しかし、まだ地上に残っている者の祈りは、その罰を和らげることができます。

正教会では、自分の直接の祖先のためだけではなく、全ての永眠者の霊の永遠の安息を祈ります。世界では毎日、多くの人間の霊が「この世」から旅立っていきます。中には、誰にも気付かれず、誰にも看取られず旅立つ人もいます。埋葬式も行われないまま旅立つ人もいます。地上に残っている私たちは、会ったことも話したこともないこれらの霊のためにも祈らなければなりません。あなたが憐れに思って祈る霊について、主・神が憐れに思わないはずがありません。そしてあなたの祈りによって、その霊が犯した罪に対する罰を和らげてくれるのです。

地上を離れた霊は、もう自分の霊の救いのために祈ることができません。教会に行って痛悔することもできません。「その期間」は終わったのです。痛悔することが間に合わなかった罪について、主・神に罰の軽減をお願いできるのは、まだ地上に残っている私たちです。

イコンの前で祈る

主ハリストスのイコン、生神女マリヤのイコン、諸聖人のイコン、神使のイコン…、これらのイコンは、その前に立つ私たちが、そこに描写されている絵画的なものを鑑賞するために在るのではありません。そこに書かれている目に見える画像を手掛かりにして、目に見えない聖神°性に思いを馳せるために在るのです。そのため、イコンにおいては、霊的な発想を妨げる要素は全て省かれています。見る者に祈りの気持ちを促すことを目的とし、祈りの気持ち以外の気持ちが生ずる可能性がある要素を排除した画――それがイコンです。そしてイコンは「描く」とは言わず、「書く」と言います。イコンが「絵に著す神学書」と言われる所以です。

祈祷書で祈る

教会で一日の祈祷のサイクルが決まっているように、家庭においても「朝の祈祷」「食前・食後の祈祷」「業を始める前の祈祷・後の祈祷」「暮の祈祷」が定められています。これらの祈祷文は、信仰生活において経験豊かな聖師父たちが書いたものであり、私たちに「正しく祈る」ことを教えてくれます。現在の日本語訳は「祈祷書」ではなく、「小祈祷書」ですが、大事なことは「大」「小」の量の問題ではなく、祈りの「質」です。一、二頁だけでも良いのです。祈祷文の言葉が「腑に落ちる」ように誠実に祈ることが大切です。また二千年の伝統を持った祈りの言葉ですから、簡単であるはずもありませんが、至極難解というほどでもありません。「解る」、「解らない」ということを優先させるのではなく、先ずは「慣れる」ことが大切です。私たちに祈祷文を理解する智恵を与えてくれるのは主・神です。「解らない」部分については、従順謙遜な心を持って、いつか主・神が必要な時に啓示してくれるであろうことを信じながら祈り続けると良いでしょう。そうすれば、一生の間に沢山の「窓」が開けていきます。そして理解できなかった多くのものが理解できるようになり、見えなかった多くのものが見えるようになっていきます。主・神は誰に、何時、どの「窓」を開くべきか、ご存知なのです。

 (函館ハリストス正教会報2011年12月・2012年1月号より)

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