函館ハリストス正教会

正教会読み物 ~ 「大斎」について

正教会は今年、2月27日(月)から大斎第一週に入ります。4月15日(日)に主の復活祭を迎えるための準備期間です。正教会において、復活祭は12大祭よりも重要な祭日です。「祭りの祭り、祝の祝」と歌われ、一年間の教会暦の中で最も喜びあふれる祭日です。

復活祭の前には六週間の大斎と一週間の受難週間が定められています。正教会では、大きな祭日の前には、相応の斎期があります。祭日の意味が大きいほど、斎期も長くなります。そして「大斎」と呼ばれる斎期は、復活祭前の斎期だけです。「大斎」の意味は、斎の期間が長いという意味だけでなく、私たちの信仰生活において、実践することが重要であることを意味しています。斎期とは、肉体と(たましい)とにおける節制の時期です。

肉体における節制として、私たちは斎の期間、肉類、乳製品、卵を断ちます。これらの食品を断ち、肉体的な斎を行うことによって、霊的な節制、即ち欲望や怒りなどの気持ちを心の中から排除することが容易になります。人は食物において奔放で、節制のない生活を送っている時は、気持ちも奔放になりがちです。気ままなものを食べ、気ままな感情に身を任せがちです。このような状態にある時、人の心は神を思う気持ち、祈りの気持ち、また自分の人生の最後について思う気持ちから遠ざかります。

このように、この世の暫時の人生をいたずらに送ることなく、霊的に警醒するためには、肉体と霊との両面における節制を行うことが大変役に立ちます。

それでは、斎期と呼ばれる限定された期間だけでなく、一年間365日、斎を行うならば、もっと良いのでしょうか。

正教会では、人間が実践することに無理がある極端な禁欲を奨励しません。人間の霊は弦楽器の弦のようなもので、時として引張ることは良い音をだすために必要ですが、始終張りつめていると、弦が切れてしまいます。

従って、正教会では、斎期とそうでない時期のリズムを定めています。特に復活祭を迎えた次の日からの一週間(光明週間(こうめいしゅうかん))は、主の復活を喜び祝う期間ですから、正教会では斎を行わない週として定められています。また、復活祭から五旬祭まで伏拝を行わないことが定められているのも、同じ理由に依ります。

復活祭前の「大斎」の期間は一年間の丁度十分の一に当たります。人生の十分の一の時間を、自分の欲望を満たすことを優先する生活ではなく、天地の創造主であり、私たちを造られた主・神の御旨に適う生活をするために努力することは、信徒の信仰生活に相応しいものです。そして主・神は私たちの信仰における熱切さに必ず報いてくれます。

歴史的に斎がいつから行われていたかというと、斎の歴史は大変古く、旧約聖書の時代に遡ります。旧約時代の人々も主・神の御旨に適うため、主・神と自分との間に平和な関係を築くために、痛悔と節制の日々を送ることによって、主・神への愛を現したのです。

教会で斎期を迎える時に、自分の心に注意を向けるべき点があります。それは「争いといさかいのため」の斎とならないように注意することです。

「争いといさかい」の斎とは何でしょうか。旧約聖書の預言者イサイヤの書には次のように書かれています。

彼等は言う、『われわれが断食したのに、なぜ、ごらんにならないのか。われわれがおのれを苦しめたのに、なぜ、ご存知ないのか』と。……見よ、あなたがたの断食するのは、ただ争いと、いさかいのため、また悪のこぶしをもって人を打つためだ。きょう、あなたがたのなす断食は、その声を上に聞えさせるものではない。このようなものは、わたしの選ぶ断食であろうか。……あなたはこれを断食ととなえ、主に受け入れられる日と、となえるであろうか。

わたしが選ぶところの断食は、悪のなわをほどき、くびきのひもを解き、しえたげられる者を放ち去らせ、すべてのくびきを折るなどの事ではないか。また飢えた者に、あなたのパンを分け与え、さすらえる貧しい者を、あなたの家に入れ、裸の者を見て、これに着せ、自分の骨肉に身を隠さないなどの事ではないか。そうすれば、あなたの光が暁のようにあらわれ出て、あなたはすみやかにいやされ、あなたの義はあなたの前に行き、主の栄光はあなたのしんがりとなる。また、あなたが呼ぶとき、主は答えられ、あなたが叫ぶとき、『わたしはここにおる』と言われる。
(イサイヤ書58;3~9)

 斎期に入ると、食物の節制、祈り、痛悔に集中し、精神的な緊張感が高まることから、普段気にならない些細なことが、些細でないことに思われ、家族や隣人との関係に争いを持ち込むことがよくあります。これは大斎期の誘いとしてよく知られている現象です。また、斎期の意味を理解して、善なる心から忠実に教会の教えを守ろうとしている人の前で、斎期に無頓着な人が斎の規則を冒したとすれば、善行(斎)を行おうとしていた人にとって誘いとなり、心の中に隣人への非難の気持ちが生ずるのは、備えがなければ自然の成り行きです。

このような斎は「争いといさかいのため」の斎です。善かれと思って始めた斎が、自分の心に対する不注意から誘いの元となるケースです。

教会においては、兄弟姉妹(けいていしまい)のお互いの行動が誘いの種とならないように気を付けましょう。斎という善い習慣が、実際に善い実りを伴うためには、このような霊的な落とし穴に陥らないように、予め心の準備をしておくことが必要です。

斎の規則の中で、食物の節制については、旅行者、病者、高齢者、貧困者(経済的な理由で、斎に相応しい食物を手に入れることができない場合)などは例外となります。また、客として招待された場合、行った先で出された食事に関しても例外とみなされます。このような場合(客として招待された場合、または職場の付き合いの食事会など)は、饗応されたものを「食べるか食べないか」という所を選択肢とするのではなく、そのような場に「行くか行かないか」ということを選択肢とするべきです。もし、「行かざるを得ない」、「行く」と決めたのであれば、行った先で出された食事について逡巡することは、実際にあまり意味がありません。

斎を実践することは、自分の聖神°性を高めるために大変良い方法です。しかしそこから多くの実りを上げるためには、正しい理解を伴った、バランスが取れた斎である必要があります。

 (函館ハリストス正教会報2012年2月・3月号より)

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