函館ハリストス正教会

正教会読み物 ~ 函館正教会と復活祭

函館の正教会で復活祭が始めて行われたのは141年前のこと、即ち1871年(明治4)であったという記録がある。この時、わずかに7人の日本人と14人の外国人のみであった。数個の紅卵が供えてあるのを見て、当時函館にいた日本人たちは、これを「珍奇」と思ったという。澤邊琢磨ら三名の日本人の最初の洗礼が行われた三年後のことである。

翌1872年(明治5)、3月23日の復活祭には、30人前後の信徒と数十人の未信徒が聖堂に集まって主の復活を祝った。翌日から始まる光明週間には毎日鐘を鳴らし、多くの人々が来堂した。伝道学校[※当時、函館の境内に伝道学校があった]の生徒が入堂者の整理に当たり、100人くらいずつ入替えながら正教の要理を話して聴かせた。この年のはじめ、聖ニコライは東京に居を移し、修道司祭アナトリイ(チハイ)が後継の管轄司祭として函館の正教会を牧していた。

さらに1874年(明治7)の復活祭には150人から160人の参祷者があったという。

函館の正教会で婦人会が創立されたのが1873年(明治6)のことであるから、この頃も受難週間に入ると、エレナ酒井ゑいらが率先して盛んに卵染めなどを行っていたことであろう。

函館では日露戦争の間も復活祭が途絶えることはなかった。

1904年、要塞地帯法によりアンドレイ目時金吾神父が有川教会 [※現、上磯正教会]に退去した年は、聖ニコライの配慮で根室からロマン福井神父が函館に出張し、聖大金曜日から復活祭、そして復活祭後の廻家祈祷に至る迄、函館に留まって信徒たちを牧してくれたのである。時局の影響により世間の誤解も少なからずあった中、この年の復活大祭の祈祷には150名余の参祷者があった。管轄司祭が常駐できなかった間、大斎の祈祷などを守っていたのは詠隊教師イサアク増田作太郎らであった。

一方、図らずして司祭常駐教会となった有川教会では、目時神父と村木伝教者による行き届いた牧会が行われることになり、活気を呈した。1904年(明治37)の「正教新報」には、教会が始まって以来初めて、教会暦通りに復活大祭の奉事を行うことができた喜びが報告されている。参祷者は50名余りだったようである。また、この年の聖枝祭には8名の洗礼があり、ひとえに神恩の顕れとし、一同主・神に感謝している。

1907年(明治40)の函館大火により、聖堂をはじめ境内が灰燼に帰したときも、函館で復活祭の祈祷が途絶えることはなかった。

大火が起こったのは1907年8月25日。東川町方面から出火し、8,977戸を焼失した大火であった。このような惨事に遇っても、当時の信徒たちはいつまでも意気消沈していることなく、年内には境内に仮会堂が成聖されるのである。信徒の中にも50戸が家を失い、それぞれが自分のことだけも大変な状況であったことを考えると、先人たちのダイナミックな信仰の力には頭が下がる思いがする。

そして迎えた翌1908年(明治41)4月26日の復活祭には参祷者160~170名、27日~30日までの四日間で廻家祈祷を行い、5月3日の復活祭後の墓地祈祷には120~130名が集ったのである。

一方、その翌1909年(明治42)、目時神父の筆による教会記録には次のように書かれている。

「聖大金曜日葬り式は旧聖堂跡を一周し十字行を執行せり。4月10日夜半より暴風雨に雷鳴にてパスハ祈祷の時も之がため参祷者は僅か70~80名」。

聖大金曜日の主の葬りの十字行を、なんと焼失した旧聖堂跡を一周して行ったというのである。その光景を想像しただけで、胸に迫るものがある。それに比べて、現在の私たちはなんと恵まれていることだろうか。

私たちは日本正教会の黎明期を担った函館正教会の先人たちが、いかに信仰に対して真摯で熱切であったかということに今、大いに学ぶべきではないだろうか。丁度今月、次ページに紹介されているように「函館ハリストス正教会史」が上梓された。どこか遠い国の知らない人たちの話ではなく、この同じ境内地で信仰生活を送った先人たちの歴史である。この歴史に触れることによって、きっと誰もが今の自分の信仰に新たなエネルギーをもらうことができるものと確信する。

今年、東北の被災教会の方から「今年は大斎のご祈祷を経て、復活祭を迎えられることが本当にありがたい」という言葉を聞いた。昨年は大斎に入ったところで震災に遇い、大変な状況の中での復活祭だったのだ。私たちは、聖堂においていつもご祈祷に与かることができるという恵まれた環境を当たり前のように思っているところがないだろうか。このことに対して神に感謝の気持ちを忘れていないだろうか。

復活祭を迎えて、生まれ変わった心で新たな信仰生活の一歩を踏み出そう。

 (函館ハリストス正教会報2012年4月・5月号より)

▲ このページの先頭へ