函館ハリストス正教会

正教会読み物 ~ 大斎について(2)

大斎とは

今年も復活祭前の大斎を迎える時期となりました。

大斎第一週は、その年の復活祭の7週間前から始まります。復活祭の日は年によって移動しますから、大斎の期間もそれに合わせて移動します。

正教会では、断肉の主日(今年は2月19日)、断酪の主日(2月26日)を経て、段階的に大斎に入って行きます。

大斎期に入ると聖堂では、「聖エフレムの祝文」や伏拝、「聖アンドレイの大カノン」など、大斎期でなければ経験することのできない祈祷が行なわれるようになります。

正教会の聖神°性の深さは、大斎期の祈祷によく表れています。

大斎期は、信徒各自が自分の内面に目を向け、自分の生き方を正教会の教えと照らし合せ、正すべきところは正す“聖神°的(内的)作業”を行なうために設けられています。

ひと口に“聖神°的作業”と言っても、この道に練達した者でなければ、一人で完璧に行なうことは難しいものです。このため、聖堂で大斎期の祈祷に与り、普段よりも丁寧に痛悔機密に臨むことが望ましいのは言うまでもありません。

大祭期は長いように思われますが、厳密に計算すると、ちょうど一年間365日の「十分の一」の日数となっています。一年の十分の一の時間を(少なくとも)、正教の教えのこと、神さまのこと、自分の生き方のことなど、普段忙しさを理由に通り過ぎしてしまっていることについて、しばし歩みを止め、ゆっくりと考えることはとても大切です。

 

怠惰(おこたり)について

前述の「聖エフレムの祝文」は、大斎が来る度に、「信徒学びの会」などのテーマに上るので、多くの信徒がよく知っていると思いますが、今日は、その中から「怠惰」という言葉を取り出して考えてみたいと思います。

まず、「聖エフレムの祝文」の全文の中で「怠惰」は何処に出てくるのか、見てみましょう。

(しゅ)()生命(いのち)主宰(しゅさい)よ、怠惰(おこたり)と、愁悶(もだえ)と、凌駕(しのぎ)と、空談(むだごと)(こころ)(われ)(あた)うる(なか)れ。
貞操(みさお)と、謙遜(へりくだり)と、忍耐(こらえ)(あい)(こころ)(われ)(なんじ)(ぼく)()(あた)(たま)へ。
嗚呼(ああ)(しゅ)(おう)よ、(われ)()(つみ)()()兄弟(けいてい)()せざるを(たま)へ、(けだし)(なんじ)世々(よよ)(あが)()めらる「アミン」。

ここで直ぐに気が付くことは、聖ニコライ・中井訳のこの祈祷文において、「怠惰」(たいだ)を敢えて「怠惰」(おこたり)と読むということです。聖ニコライの正教会訳語には、熟語の読み方を普通の日本語の読み方と意図的に変えているものがよくあります。これは、普通の日本語の読み方では、日本人のイメージするものが、その言葉の日本語の歴史の中で担ってきた既成のイメージで処理されてしまい、正教の教えを正確にその言葉に込められなくなってしまうからです。一例として正教会では「天国」を「てんごく」ではなく、「てんこく」と読むことが挙げられますが、わざわざ「天国」を引くまでもなく、「聖エフレムの祝文」そのものの中に沢山の特別なふりがなを見ることができます。これは、普通の読み方をして、何も注意を払わずに「判ったこと」としないよう、聖ニコライが正教的な意味が込められていることについて読み手の注意を喚起しているサインなのです。

ここでも、「怠惰」を普通に「たいだ」と読まないのは、普通の「なまける」という意味以上の内容が込められているからです。

「怠惰」が罪であることは、一般社会的にもなんとなく理解できるところではありますが、正教の教えにおいて罪であることの理由は、神が天地創造の際に人間を作られた意図に反するからです。

見えるもの、見えざるもの全てを造られた神・造成主は、その世界にさらに手を加え、発展させていくための共働者としてアダムを造りました。神がご自分の造った動物や植物について、アダムに名前をつけさせたのもそのためです。神は、アダムがつけた名前を見て、それを善しとしました。

アダムとエヴァが罪を冒し、楽園から追放された後も、今日に至るまで、人間が働くのは、単に「日々の糧を得るため」という狭義の労働だけでなく、働くという行為そのものに、人間であることの意味が神から与えられているからです。

労働には、芸術的、創造的、知的な労働、肉体労働、機械的な作業など様々な形態があります。しかし、どのような仕事に就いている人でも、24時間同じ仕事を続ける人はいません。家庭に戻れば、家事、育児、家族や知人との交流、趣味など、仕事とは異なる形ではありますが人間としての「働き」は続きます。また、翌日も健康で仕事を行なうために、睡眠や休息をとることは不可欠です。

「聖エフレム」の祝文に出てくる「怠惰」とは、人間に休息してはいけないと言っているわけではありません。

実は、「聖エフレム」の祝文の中の「怠惰」が意味するところは、非常に具体的なのです。それは仕事をしている時でも(それがどのような形態の仕事であれ)、家事をしている時でも、友達と歓談している時でも、就寝時でも、いかなる時でも「人間の霊に悪魔が囁く隙を造ってしまうこと」を「怠惰」と言っているのです。

この祈祷文が編まれたのは修道院です。修道士たちの一日は、「聴き従うこと」によって構成されます。いつどれだけどのように祈り、働き、休むのか、各自の聖神°性の向上の益になるよう、長老や修道院長の祝福通りに行います。自分勝手な意志を遊ばせる自分勝手な時間が無いので、悪魔が近寄って来ても「お前の相手をしている暇は無い」と一蹴することができます。

私たちは修道院に住んでいるわけではありませんが、日本の諺にも「小人閑居して不善をなす」とあります。部分的に繋がるものがあると思います。

ただ、ここで再度私たちが見落としてはならないことは、例えば「一日中肉体労働をしていたから、今日私は怠惰ではなかった」とは必ずしも言えないということです。

問題は、聖神°的怠惰です。

聖神°性とはエスカレーターのようなものです。上に行かなければ、下に行きます。肉体的労働をしていたということを盾に、自分の聖神°的な状態を放置しておけば、それは必ず下に行きます。

肉体労働をしていれば、それは誰にでも見えます。聖神°的な労働(祈り、内省、悔改)は可視的なものではないので、怠けていても一見判りません。しかし、それは確実にその人の時間(その連続が人生になるのですが)の質の低下を招きます。そして過ぎた時間は、二度と戻りません。

今年の大斎は、今年だけです。祈りと悔改のチャンスです。来るか来ないか解らない来年をあてにするのではなく、目の前にある今年を堅実に生きることのほうが確実です。

今年の大斎が有意義なものとなりますように。

 

(函館ハリストス正教会報2017年2月・3月号より)

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