函館ハリストス正教会

正教会読み物 ~ 痛悔機密について

教会を取巻く時代の環境

主イイスス・ハリストスがこの地上を歩いておられた頃と比べると、教会を取巻く環境はかなり変わったと言わざるを得ないでしょう。

教会の中のみ、またあるべき信仰のみを見つめていれば、「何も変わっていない」という言い方もできます。そしてそれは正しいのですが、私たちを取巻く社会に目を向けると、そこには時代の荒波や文明の進歩と呼ばれるものが、常に渦巻いています。

例えば、今より少し時代を遡って、聖堂に電気が通るようになった時、パニカジーラ(聖堂中央のシャンデリア)の灯りが、ろうそくではなく、スイッチ一つで点灯することに言葉には表せない違和感を感じた人たちも多かったようです。その後、電灯のパニカジーラに慣れた私たちは、これがもともとろうそくだったことすら忘れてしまいました。今でも、ロシアの幾つかの聖堂やギリシャのアトス山では、ろうそくとランパーダ(沁を油に浸すタイプ)の灯りしか使いません。

もっとも聖堂の電気については、どちらが“良い・悪い”ということを論ずるテーマではありません。これについては既に教会の判断、即ち教会の祝福があるのですから、私たちは何ら良心の呵責を感ずることなく、スイッチを押して電気の恩恵に与って良いのです。

 

オンライン

現在の私たちの日常生活は、情報技術の発達の恩恵を受け、ほんの数十年前には想像もできなかったことがどんどん可能になっていきます。そして、この可能性は止まる所を知らず、“これでもか”と云わんばかりに日々新しいもの、新しい発想を私たちの目の前に投げかけ続けています。

オンラインショップ、オンライン銀行などインターネット上で処理できることが増えると、私たちはこの種の便利さに慣れ、今まで当たり前のようにしてきたことを“面倒”と思うようになります。

 

オンラインショップ、オンライン銀行が在り得るのならば、オンライン痛悔も在り得るのでしょうか。正教会は、このことについてどのように教えているのでしょうか。

正教会の機密、祈り、祈祷書に日頃より親しんでいるハリスチアニンであれば、この質問に対する答えは自ずと判るはずですし、そもそもこの質問のような発想をしないのではないかと思われます。

しかし、現代のネット世代の若者たちにとって、このような質問を提示することは何ら臆すべきことではないのです。むしろ、ここまで信仰について考えたという点において、褒むべきなのだろううかとさえ思われます。

もちろん、正教会においてオンライン痛悔は認められません。どうしてなのか、考えてみましょう。

 

痛悔機密を行なう環境

痛悔機密において、信徒は自分の罪を自分の言葉で語り、神品より見える形において赦しの祈祷を得、主イイスス・ハリストスより見えない形において罪の赦しを得ます。見える形での赦しの祈祷とは、神品が痛悔した信徒の頭にエピトラヒリを掛けて、謝罪の祝文を唱えることを指しています。

痛悔を聴く前に神品に依って誦読される祈祷文には、次のように記してあります。

「子や、それ ハリストスは見えずして立ち、爾の告解を受く、恥ずるなかれ、懼るるなかれ、何事をも我に隠すなかれ、乃ち遺す所なくして、凡その行ないし事を告げよ、我が主イイスス・ハリストスより救いを受けんが為なり、視よ、彼の聖像も我等の前に在り、我は唯証人のみ、凡そ爾が我に告ぐる所を彼の前に証せんが為なり、もし何事をか我に隠さば、罪愈倍せん、故に慎めよ、蓋し爾は醫院に来れり、恐らくは癒されずして去らん」

この祈祷文を聴くと、痛悔機密の如何なるものであるかということが見えてきます。

痛悔機密において、アナロイの横に立つ神品は痛悔の證人です。告解者が痛悔において語る言葉は、告解者の傍らに見えずして存在する主ハリストスに向けられるものとなります。

前記祈祷文の最後の部分は、平易な言葉に言い換えるならば、「わかりますか。あなたは病院に来たのですよ。ここから病気のまま帰るために来たのではないでしょう」とでもなるでしょうか。

私たちは、例えば虫歯を治療しなければならない時に、歯医者さんに電話をしたり、オンラインチャットをしたりして治そうとはしないはずです。罪とは、聖神°における病です。この病から癒されるためには、傷口を医者(主ハリストス)に見せなければなりません。包帯で巻いておけば、外からは見えませんが、それで傷は治るどころか、悪くなるばかりです。痛悔を避けて、霊の内に罪を抱えたまま放っておけば、傷口の治療を怠って放っておくのと同じ状態が、霊の内で起こります。

さらに目を留めたいのが、祈祷文の中の次の言葉です。

「視よ、彼の聖像も我等の前に在り、我は唯証人のみ、凡そ爾が我に告ぐる所を彼の前に証せんが為なり」

ここに「聖像」と記されているのは、通常痛悔のためのアナロイは聖堂の中に在りますから、告解者の見える範囲でその前にはイコンがあるものですが、十字架と福音書も当然含まれています。なぜならば、十字架も福音書もこの痛悔の場所に主ハリストスが存在することを証しているからです。

ここで「告ぐる」と記されているのは、原語では「口で語る」の意味です。書いたり、キーボードを叩いたりすることによって伝えることではありません。(ここでは、通常の場合について述べています。身体的に障害のある方への配慮は別になります)。

 

正しい「恥」

「恥」に“正しい”・“正しくいない”があるのか、と思われる向きもあるでしょうが、正教会では正しい「恥」について次のように教えています。

前記祈祷文の中にも「恥ずるなかれ、懼るるなかれ」と記されています。

ということは、痛悔機密の場において、「恥」と「懼れ」は、告解者の中に普通に起こる自然な気持ちだとも言えます。

しかし、ここで間違えてはならないのは、この「恥」の気持ちが、アナロイの横に立っている神品(證人に過ぎない)の前での恥じらいではなく、主・神の前において恥じる気持ちでなければならないということです。

 

主・神に対しては「恥じず、懼れず」であって、人間である神品の前で自分の罪を明かすことが「恥ずかしい」のであれば、それこそ痛悔すべき罪です。

主・神の前での“正しい”「恥」とは、例えばエズラ記第9章6節で預言者エズラが記しているようなものです。

「わが神よ、わたしはあなたに向って顔を上げるのを恥じて、赤面します、我々の不義は積もって頭よりも高くなり、我々のとがは重くなって天に達したからです」。

もちろん、痛悔すべき内容に依っては、自分の罪を口にすることは、とても辛く、とても恥ずかしいことです。しかし、それは私たちが天の国に入るために必ずしなければならないことです。ヴァレンチン・モルダソフ神父という人は、次のように率直に述べています。

「痛悔機密において自分の罪を語ることを恥じるのは、傲慢が原因である。主・神の前で、自分を断罪し、神品を証人として罪の赦しと心の平安を得ることができるというのに」。

ここで大事なポイントが一つあります。

それは「痛悔」とは「悔改」が結実したものであるということです。

つまり、誠に悔い改めた結果が痛悔機密での告解になるのであって、痛悔機密の場に立つ前に、自分の心の中で悔い改めがきちんとできていなければ、痛悔の場で言うべき言葉を失うのは当然なのです。

聖師父の教えの中に次のような言葉があります。

「ある者は不信仰のゆえ、ある者は小心のゆえ、ある者は間違った畏れの気持ちゆえ、ある者は間違った恥の気持ちゆえ、痛悔の場で自分の罪を隠し、それを何とも思わない。しかし、実際にそれは何ともなくはないのだ。主・神が赦す罪とは、自分の心を砕き、余すところなく全ての自分の罪を述べた者の罪だけだ。自分の罪を言わずに隠す者を主・神は裁く。従って、兄弟姉妹よ、痛悔においては率直であるべきだ。何事をも隠すべきではない。そうすれば、主・神はあなたがたを赦される」。

勇気を持って痛悔に行こう!

主・神が援けてくれますように!

 

(函館ハリストス正教会報2017年6月・7月号より)

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