函館ハリストス正教会

正教会読み物 ~ 信仰と謙遜

謙遜とは 

謙遜という言葉は、日本語でもよく使われる単語です。馴染の深い単語なので、正教会の祈祷文や聖書の中に謙遜という言葉が出てきても、既知の概念として、特別にその意味に注意を払わない人が多いかもしれません。

正教会で謙遜と訳される単語を、ロシア語では「смирение(スミレーニエ)」と言います。

文字だけ眺めても「мир(ミール)」という語根が含まれいるのが見えますが、「мир(ミール)」とは、安和で穏やかな状態を表す言葉です。そこに「c()」という接頭辞が付いて、「смирение(スミレーニエ)」とは「自分の心を安和で穏やかな状態に仕向けること=全能の主・神に恃みを置き、傲慢に陥らないこと」を意味します。こうなってくると、「今まで思っていた謙遜の意味とは重なる部分もありながら、それだけではないらしい」ということに気が付くでしょう。

正教信仰において謙遜は、聖師父の教えの中に「謙遜の無い信仰は在り得ない」という表現があるほど、信仰と深く結びついた概念です。

それでは、正教の教えにおける謙遜の意味をより深く理解するために、聖師父の教えを見ていきましょう。

 

聖師父及び聖人の言葉 — 謙遜について

主ハリストスは、全てを耐え忍んだ。あなたが最良の形で謙遜ということを学ぶために。

(聖金口イオアン)

 

全ての事において、全ての人に対して謙遜でありなさい。なぜならば謙遜を忘れたときに、人は悪魔が張り巡らした見えない罠に足をとられるからだ。

(聖金口イオアン)

 

謙遜は天国への道であり、天国の扉である。人間が天国に昇って行くための梯子であり、まさにその梯子によって主ハリストスは天の高みから人間の地上に降りてきたのである。

(聖金口イオアン)

 

真の謙遜とは福音経の教えに完全に従うことである。

(聖イグナティ・ブリャンチャニノフ)

 

真に謙遜な人は、自分を謙遜な人間だと考えていない。逆に自分の内に多くの傲慢な点を視ている。

(聖イグナティ・ブリャンチャニノフ)

 

真に謙遜であるためには、自分の内から自己弁護と隣人批判の気持ちを追い出さなければならない。

(聖イグナティ・ブリャンチャニノフ)

 

「神°の貧しき者は幸いなり」。なぜならば、人は自分の中に心の貧しさを認識すれば認識するほど、自分について謙遜になるからである。そして人は謙遜になれば謙遜になるほど主・神の恩寵をより多く得るのである。

(聖ティーホン・ザドンスキー)

 

多くの人が、自分の内には傲慢、嫉妬、怒りなどが無いと思っている。しかし、ほんの少し気に入らないことが起った途端、隠れていたそれらの感情が一気に噴出する。

(聖ティーホン・ザドンスキー)

 

謙遜な人は落ちない。なぜならば、常に足が地に着いているからである。傲慢な人は舞い上がって、いつか必ず落ちる。

(聖ティーホン・ザドンスキー)

 

人間にとって神を畏るる心と謙遜な心は、生きていくのに空気が必要なのと同じくらい必要なものである。

(聖大ピーメン)

 

人前で自分の欠点について話したり、卑下してみせたりすることが謙遜なのではない。それらの欠点を人があなたに向って言った時、穏やかに聴くことができる人が真に謙遜な人なのである。

(ローマの克肖者聖イオアン・カシアン)

 

自分のことをけなして見せる人が謙遜なのではない。他人が自分をけなした時に、その人に対する愛を失わない人が真に謙遜な人なのである。

(階梯者聖イオアン)

 

謙遜には二種類ある。一つは隣人を自分よりも優れた者とみなす、又は自分を誰よりも低い者とみなす謙遜である。もう一つは、自分に誇る権利がある事柄を全て主・神のおかげとみなす謙遜である。後者の謙遜は、前者の謙遜よりも優れている。なぜならば、本当に何も誇ることがない者が自らを低くみなしても、それを謙遜とは言わないからだ。後者の謙遜は、教会の教えを従順に行なうことによって身に付けることができる。教会の教えを従順に行なった結果得た実りは、果実が実った枝が下に向ってたわむように、人を謙遜にする。

(師父ドロフェイ)

 

完全な謙遜

「謙遜の無い信仰は在り得ない」という聖師父の教えが表す通り、信仰と謙遜は切っても切れない関係にあるが故に、聖師父や聖人が謙遜について人々を教えている言葉は数限りなくあります。前述の引用は、その中のほんの一部に過ぎません。

そしてさらに“難度の高い”謙遜についての教え、即ち修道者たちに求められる謙遜について、次のような言葉があります。

謙遜は貧しくなければ身に付けることができない。その貧しさとはこの世を去ることである。即ち富や物を持たないことであり、また欲や未練を持たないことである。これらが付きまとう限り、人間は忍耐、従順、心の平安、完全な愛を身に付けるための訓練を始めることすら不可能である。(ローマの克肖者聖イオアン・カシアン)

この言葉は、世俗に生きているハリスチアニンにとっては一見厳しく映るかもしれませんが、少し考えてみれば「きっとその通りであろう」という察しがつく内容です。

ここで大切なことは、「そういうことならば、謙遜は自分と関係ない」と投げ出すのではなく、先ずは謙遜の全貌が斯くあるものであることを受け留め、その上で自分ができる範囲のことを行なっていくことです。なぜならば、このような生き方こそが謙遜だからです。また、このような考え方を持っていれば、自分が謙遜の模範であるかのような傲慢に陥ることもありません。

誰でも天国に入りたいと思います。しかし、天国は自分勝手に入る所ではありません。正教会(しく神を讃美する教会)は、その名の通り、天国に入るための正しい道を教えています。その道は私たちの前に開かれているのです。要は、各自が自分の意思によって一歩を踏み出すかどうかです。

 

(函館ハリストス正教会報2017年8月・9月号より)

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