函館ハリストス正教会

初代聖堂焼失

 函館は、「大火史」というものが編まれるくらい、大火が多い町である。その史上二番目に大きな大火が、1907(明治40)年の大火だ。

 8月25日午後10時20分頃、東川町217番地石鹸工場から出火した火は、非常に強い東風と飛び火により、各所に延焼し、翌26日午前9時25分、ようやく鎮火した。

 罹災面積400,000坪、焼失戸数12,390戸、死者8名、負傷者1,000名。

 会所町、寿町、恵比寿町、大町、鍛治町、富岡町、末広町など14町を全焼し、元町、曙町、汐見町、青柳町など20町の一部を焼失した。

 出火から一週間後の8月31日、聖ニコライの祝福で東京から火事見舞いに来たペトル石川喜三郎(「正教新報」主筆)は、汽船が津軽海峡を横断して函館に近づいた時、町の上に未だ白煙がたなびいているのを見て、信じ難い思いに捉われる。その日の夜、石川は執事の氏家の案内で、アンドレイ目時神父を避難所に訪ねるのだが、帰途、西も東も焼野原となれば、何の目印もなく、氏家ですら道に迷う有様。提灯の灯りで焼け跡の立札に僅かに読める町名を頼りに歩いた。

 翌9月1日、聖堂の焼け跡を視察した石川は、「正教新報」(643号)にその様子を次のように報告している。(以下、要約抜粋)。

 目時神父、松本伝教者、月岡増田並びに執事西村兄等の案内で、聖堂の焼跡を見ると、境内地の立木は一本も残らず、幹も枝も焼け、地面の芝草も焼けて青いものは何もない。聖堂始めその他の建物も焼け残りの木材もなく、全て灰となり、石垣が残っているのみ。今までの草木鬱蒼とした美観は跡形もなく、荒涼たる荒地と変わり果てた。

 境内地の東と西の境は、隣家も焼失したため、道路との境もなくなり、聖堂の敷地内に縦横に人が入ってくる。荷車までも引き込むありさま。倉岡兄は、焼け残ったブリキ板を使って三角塔(ピラミッド)形の小屋を作り、今晩より番をするとのこと。

 二、三日前に有川教会の信徒が来て、もと宝座のあった場所の四方に囲いを廻らして、宝座の跡を保護した。また聖堂内の墓穴も特別に保護した。

 同夜、信徒の代表者として執事氏家、下田、石川(平家相続人)、西村、福士その他信徒より倉岡氏並びに教役者の集会を行なった。教会の善後策について協議した。

 私は、昨日から当地の惨状を見ているので、教会の善後策について相談などするのも如何なものかと案じていたが、類焼した信徒までも思ったより元気で、今さら悲観していても何の得にもならないのだから、かえってこの際、腹を決めて執事たちが責任を負って、仮聖堂及び司祭伝教者唱歌教師その他の住居を焼跡に新築しよう、ということになった。木材や大工の手間賃は、今は非常に高騰しているので、これが収まるのを待って、至急建築に着手することにした。また、司祭伝教者の給料の財源となっている貸家は二ヶ所共に類焼したのだが、執事たちはいろいろと計算して、当面司祭の給料を15円負担し、その他伝教者の給料を規定の通り6円、つまり合計毎月21円を負担することを決めた。私は、このように信徒が元気である様子を見て、函館教会には確かに教会独立自営の精神と実力があると認めた。これからそれほど間をおかずとも、必ず司祭の給料も全額元に戻るであろう。今後の大問題は聖堂建築のことだが、函館教会は日本正教会の母教会であれば、他の地方とは違い、函館に聖堂を再建すると聞く日本全国の教会が奮って寄付をするだろうから、数年の後には必ず函館相当の聖堂を建築するだろう。

(「函館教会慰問紀行」より)

 

焼失前の境内地の様子(1875年~1880年頃)(信徒が記憶を頼りに手書きしたもの)

焼失前の境内地の様子(1875年~1880年頃)
(信徒が記憶を頼りに手書きしたもの)

 

 境内地の「全てが灰燼に帰した」と言われる火事ではあるが、目時神父が記録した帳面に依ると、それでも残ったものが五点ある。
 1、宝座前大十字架  聖像ハメ銀メッキ製大形  一個
 2、宝座上予備聖体入聖龕  ガラス函入レ銀製  一個
 3、携帯用予備聖体入  銀製  一個
 4、接吻十字架  銀製  二個 (焼ケシモ用ニ適ス)
 5、教会名印  鉄製

 1、2、3、は目時神父が避難する際に、持ち出した。

 また、境内に居住していた者たちが、聖堂内の物品を聖堂裏広場に持ち出したが、これらは皆焼けてしまった。

 結局、前記五点のもの以外は全て烏有に帰したわけだが、その中にメトリカがある。函館正教会にとって聖堂の焼失は痛手であったが、メトリカの焼失も同程度の痛手であった。おそらくは一頁目を修道司祭フィラレートが書き始め、次に長司祭ワシリイ・マホフ、そして聖ニコライ、掌院アナトリイ、…と受け継いできたメトリカのはずだ。

 当時、境内地に居住していた者は、目時神父、松本伝教者、月岡伝教者、増田詠隊教師、酒井老姉(エレナ酒井ゑい)、倉岡ニキタ、山懸老母(山縣神父の母)、小使鳥井の8戸であった。信徒で類焼した者は、50戸である。

 

 

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