函館ハリストス正教会

仮聖堂で

 我らが函館正教会の父祖兄弟は立派だったと感服するのは、大火直後の彼らの行動力である。信徒の多くが焼け出され、市中も物流など通常の日常生活がマヒした状態においてなお、一刻も早く教会生活を正常に戻したいという一心で、大火の四か月半後には、仮聖堂の開堂式を行なっているのである。仮聖堂は、北東の四分の一、現在で言えばバザーの時の臨時駐車場などとしている場所に建っていた。

 信徒の手描き図面を見ると、神父、松本伝教者、酒井ゑい、増田詠隊教師らの住居も、屋内を仕切ってしつらえてある。

 開堂式の日は、久しぶりの聖体礼儀が行なわれ、なかなかの盛会であった。

 大火の年も明け、翌1908(明治41)年1月7日、函館正教会は仮会堂で初めての降誕祭を迎える。その様子は、下記の通りである。

 

 「災後の教会たる我が会も神恩に依り仮会堂において主の降誕を祝讃したり、即ち午前9時より聖体礼儀を執行し引き続き祝賀会を開催し、各自祝詞演説の後福引余興ありて賑わしく、信者の参拝も前晩も多数にて当日は200名余に達し、罹災後初めての大会にて何れも満足の様子に見受けられたり」(正教新報652号)。

 

 大火翌年、1908(明治41)年4月26日の復活祭には、参祷者160~170名が集まった。一方その翌1909(明治42)年には「聖大金曜日葬り式は旧聖堂跡を一周し十字行を執行せり。4月10日夜半より暴風雨に雷鳴にてパスハ祈祷の時も之がため参祷者は僅か70~80名」とある。

 

 仮聖堂での教会生活は、9年間に及ぶのであるが、降誕祭、復活祭など大きな祭日には総じて200名程の参祷者があり、祝賀会では、増田詠隊教師らがバイオリンや琴の演奏、寸劇などで活躍して皆を楽しませている。

仮聖堂手書き図面(ワッサ加藤ワサ)

仮聖堂手書き図面
(ワッサ加藤ワサ)

 

増田詠隊教師(前列右)

増田詠隊教師(前列右)

 

 この間に、管轄司祭はアンドレイ目時神父からモイセイ白岩徳太郎神父へと替わる。

 目時神父は、1901(明治34)年から1912(明治45)年まで函館を管轄し、次の任地京都正教会へ転任した。

 白岩神父は、1912(明治45)年から1941(昭和16)年まで、29年の長きに渡って函館を管轄し、この年12月27日に永眠。函館ハリストス正教会墓地を永遠の憩いの地としている。

 ちなみに目時神父の函館時代は、ハプニングの連続である。「そういう時代だった」と言ってしまえば、それまでだが。

 函館への赴任後、暫くして日露戦争勃発。函館要塞司令部から24時間以内の立ち退きを命じられる。有川正教会(現、上磯正教会)に退去し、彼の地で毎日のように伝道会を開いて牧会に励むも、今度は日露戦争終結に伴い、日本各地に設営されたロシア人俘虜収容所に出張を命じられる。目時神父は福岡や小倉の俘虜収容所で、ロシア人俘虜のために聖体礼儀、埋葬、パニヒダなどを行なった。両収容所併せて4,700人以上の兵士がいた。信仰心の篤い4,700人の“信徒”の要望に一人の司祭で対応するのは、かなりハードスケジュールだった。当時、日本全国28カ所の収容所に76,000人のロシア人俘虜がいた。彼らが舞鶴や神戸などの港から本国に帰り、俘虜収容所が閉鎖されたのは1906(明治39)年のことだった。福岡では目時神父の送別会が行なわれ、函館では歓迎慰労会が行なわれた。そして一年経った1907(明治40)年の函館大火。境内地全焼。1908(明治41)9月には、聖堂再建費募集のため、ウラジオストク、ハルビン、ニコラエフスクなどを廻る募金行脚の旅に出ている。

アンドレイ目時金吾神父

アンドレイ目時金吾神父

モイセイ白岩徳太郎神父

モイセイ白岩徳太郎神父

 

 

目次に戻る | ← 初代聖堂焼失 | 聖ニコライ奔走

▲ このページの先頭へ