函館ハリストス正教会

聖ニコライの奔走

 初代聖堂が焼失した時から、皆が判っていた次なる課題 —– それは聖堂再建という課題だった。

 しかし、いつ、どのようにして?

 一番の問題は、資金だった。必要な金額は、当初22,000円程度と見積もったが、それが30,000円という話になり、最終的には総額45,000円となった。

 皆、各自の力に応じて「レプタ」を教会に献じた。目時神父は、ロシアに募金の旅に出た。各信徒家庭も寄附を行なった。全国各地の教会から寄付が送られてきた。

 しかし、このような方法では、いつになったら積立金額が45,000円に達するのか。当時の1円に今の5,000倍の価値があったと仮定したとしても、2億円以上の金額である。

 明治期の価格では、あまり参考にならないかもしれないが、ちなみに1880(明治13)年に建てられた東京日比谷の華麗なる鹿鳴館の総工費は180,000円だった。

 聖ニコライの日記を見ると、1909(明治42)年以降、1912(明治45)に永眠する直前まで、函館の聖堂を再建するための資金集めに奔走する聖ニコライの姿がある。火事の後、宣教団の焼け跡が荒れたままになっていることを指摘したり、嘆いたりする人は大勢いたが、実際に資金集めの陣頭指揮をとれるだけの人脈と、それを活かすことができる人格が備わっている人物は、結局聖ニコライの他にいなかった。(以下、日付は旧暦)。

 

1909(明治42)年10月27日、火曜日。

 ペテルブルクのアナスタシヤ・ペトローヴナ・シネリニコワに手紙を書いた。・・・彼女に函館の教会建設について頼んでみようという考えが浮かんだ。それで私は今日、そのことについて彼女に手紙を書き、建設費として最低でも22,000ルーブルはかかること、そのほかに教会の広い土地のまわりに塀をつくる費用がかかることを知らせた。

 

1909年12月26日、土曜日。

 今日受け取った手紙の中で最も重要なのはアナスタシヤ・ペトローヴナ・シネリニコワの手紙である。函館教会について、建設費の全額を出すとは言っていないが、寄附は間違いなくするつもりのようだ。

 

1910年1月14日、木曜日。

 ペテルブルクのアナスタシヤ・ペトローヴナ・シネリニコワに手紙を書き、函館の聖堂建設のための寄進を、できるかぎりでよいのでお願いした。

 

1910年9月9日、木曜日。

 大使ニコライ・アンドレーヴィッチ・マレフスキーが来た。彼は函館から帰ってきたばかりで、次のように話していた。「火事のあと、宣教団の敷地が荒れたままになっているのを見るのは、痛々しく残念だ。カトリック教徒たちには、煉瓦造りの大きな聖堂が建てられ、プロテスタント教徒たちには学校がある。われわれのところだけ、まだ無人の焼け跡なのだ」。それで函館聖堂建設のため、100円を出してくれた。今は資金がないのだからどうしようもない。しかし、なんとか集めるようにやってみるつもりだ。

 

1910年9月11日、土曜日。

 ペテルブルグのシネリニコワには、函館聖堂のための寄進をお願いした。

 

 1910年10月19日、火曜日。

 セルギイ主教のロシア滞在は、宣教団にとっては無益には終わらなかった。宣教団がどのような状況にあるか、何を必要としているか、情報を広め、援助を呼びかけてくれたのだ。

 きょう届いた『モスクワ報知』10月6日付、229号の社説「極東の正教」は、全面でわれわれの宣教団をとりあげ、宣教団が必要としているものを挙げてくれている。すなわち、さらに二名の宣教師、日本で修道院を営む修道士一名、函館聖堂の建設費用である。これはみな、前日、主教区会館の集会でセルギイ主教が行った報告で伝えられた情報なのだ。

 

1910年10月21日、木曜日。

 アナスタシヤ・ペトローヴナ・シネリニコワから1,000ルーブル(1,025円)が送金されたと、露清銀行からきょう報せを受けた。これはつまり、函館聖堂のための寄進である。8月にわたしが手紙でお願いしたので、送ってくれたのである。彼女が教会寄進者総代となってくれるかもしれないと、いくらか期待を抱いていたのだが、この少なからぬ寄進にたいし、神が彼女を祝福されたもうように!

 

1910年10月25日、月曜日。

 サルトゥイコワ公爵夫人に手紙を出し、函館聖堂建設のための援助をお願いした。

 

1910年11月19日、金曜日。

 セルギイ主教から、彼が函館聖堂建設のためにロシアで集めてきた1,500円を受け取った。

 

1910年11月23日、火曜日。

 ドイツの銀行経由で、モスクワから1,024円84銭が届く。きっとワシリイ主教が手紙で書いていたガルトゥング夫人からの献金だ。函館聖堂建設用に充分な額が貯まるまでは、お金は”Specie Bank”(正金貨銀行)に預けておく。

 

1911年1月29日、土曜日。

 昨年の10月25日、わたしはペテルブルクのアンナ・セルゲーエヴナ・サルトゥイコワ公爵夫人に手紙を書き、函館聖堂建設のための献金をお願いした。今日、公爵夫人より送信をもらったが、彼女個人の寄附801フラン70サンチームと共に、あのお金は私が掛け合った結果、「幸運な偶然により」、宗務院から函館聖堂のために2,000ルーブル出してもらったものですとのことづけが記されていた。

 

1911年2月6日、日曜日。

 アンナ・セルゲーエヴナ・サルトゥイコワ公爵夫人に、函館聖堂のための献金に対する礼状を書き、F.N.ブィストロフの助言に従い、ペテルブルクのマリヤ・トロフィモヴナ・コジミナに、函館聖堂のための献金をお願いした。いつの日にか、神の助けにより、資金を集めることができるだろうか。これまで私があちこちに手紙を書き、セルギイ主教がロシアで献金を募ってくれた結果、6,000ルーブルにおよぶ額が集った。だが30,000ルーブルは必要だ。

 

1911年3月28日、月曜日。

 モスクワのクセニヤ・フョードロヴナ・コレスニコワに手紙を書き、函館聖堂のための献金をお願いした。

 

1911年3月31日、木曜日。

 モスクワのモジャイスクの主教ワシリイ座下に手紙を書いた。「函館聖堂のための献金を誰にお願いしたらよいでしょうか。ご助言をお願いします」。

 

1911年4月1日、金曜日。

 サンクト・ペテルブルクのアナスタシヤ・ペトローヴナ・シネリニコワ、サンクト・ペテルブルクのマトリョーナ・チモフェーエヴナ・コジミナ、およびカザンのパウェル・ワシーリエヴィッチ・シチェチンキンに、手紙で函館聖堂のために献金をお願いした。

 

1911年4月5日、聖大火曜日。

 三日前には、ペテルブルクのエリザヴェータ・ヴラジーミロヴナ・シュワーロワ伯爵夫人よりバルスコフ著『ポゴージンの生涯と業績 22冊の本』が届いた。彼女にお礼の手紙を書き、函館聖堂建設のための援助をお願いした。

 

1911年4月18日、月曜日。

 『モスクワ報知』の事務所から募金270ルーブルが届いた。函館聖堂用として帳簿につけ、確かに受け取った旨を『モスクワ報知』に知らせた。

 

1911年4月20日、水曜日。

 ヤロスラヴリの大主教ティホン座下に手紙を書き、座下が送ってくれたある人物からの宣教団への献金、100ルーブルのお礼を言った。この献金は函館聖堂用として帳簿につけた。献金は、ティホン座下の神学大学時代の同級生であるペトル・ブルガーコフ師を通して送られてきた。

 

1911年4月23日、土曜日。

 サンクト・ペテルブルクのアナスタシヤ・ペトローヴナ・シネリニコワに手紙を書いた。「函館聖堂のためにさらなる献金をという、私の願いをかなえることができないということが、あなたのお気持ちを重くするようでしたら、どうぞその願いについては気になさらないで下さい。私はその願いを取り下げます」と。

 

1911年4月27日、水曜日。

 いつかわたしがこちらから薬を送ってあげたのだが、亡くなってしまったプスコフの司祭の息子レオニード・コンスタンチノヴィッチ・コワレフスキーが、「火事の被災者たちへの援助として100ルーブル」を送ってくれた。しかし、被災者とはどの被災者のことなのか、彼は書いていない。私にしても、いくら最近日本では火事が少なくないとはいえ、被災者のうちの誰にそれをやったらよいのかわからない。そのため、この献金は函館の聖堂建設用として、すなわち1907年に焼けてしまったものの改修用として帳簿につけ、コワレフスキー氏に礼状を書き、彼の献金を何に使うことにしたかを伝えた。

 

1911年5月2日、月曜日。

 ノヴゴロドのアンドロニク座下の手紙に返事を書き、函館聖堂建設の資金集めに協力してもらいたいとお願いした。

 

1911年5月20日、金曜日。

 ぺテルブルクのフェオドル・ブィストロフ師から一度に二通の手紙が来た。その中で師は、次の人たちがこちらに献金をしたと知らせてくれた。コジミナ夫人(私が手紙で函館聖堂のために献金をお願いした人だ)が200ルーブル、いつも宣教団に施しをしてくれるヴォログダの主教ニコン座下が515ルーブルである。ありがたい!どちらの献金も函館聖堂建設用として帳簿につける。

 

1911年6月21日、火曜日。

 サルトゥイコワ最高公爵〔公爵の中の高位〕夫人と彼女の娘婿であるオボレンスキー公爵(元宗務院総監)に、ステンボク伯爵からの函館聖堂への献金300ルーブルをこちらに送付してくれたことにたいし、礼状を書き、かれら自身にも同様の献金をお願いした。

 

1911年8月11日、木曜日。

 シュワーロワ伯爵夫人から推薦された7人の人物に、函館聖堂のための献金をお願いする手紙を送った。

 

1911年11月26日、土曜日。

 クセニヤ・フォードロヴナ・コレスニコワに松山聖堂のアルバムを送り、函館の聖堂建設にもお金を出してもらえないかとお願いした。

 

1911年11月29日、火曜日。

 ペテルブルクのエリザヴェータ・ヴラジミロヴナ・シュワーロワ伯爵夫人に手紙を書き、彼女が推薦してくれた裕福な貴族たちのうち、だれ一人として私の呼びかけに応じてはくれず、函館聖堂のために1コペイカも送ってくれなかったと伝えた。このような宣教団の困窮に手を貸してほしいと、再度彼女にお願いした。

 

1912年2月8日、木曜日。

 ニコライはロシアの宣教協会への「報告書」を作成。ロシアの慈善家コレスニコワから函館教会建設のために献金3,000円の申し出が届く。大いによろこぶ。(ニコライの日記 第九巻「ニコライ略年譜」)

 

 そして一週間後、1912年2月16日、聖ニコライは永眠する。

 永眠直前まで函館の聖堂再建を衷心から願い、資金集めに奔走した聖ニコライの姿をこの日記に見て、今、函館の信徒は何を思うだろうか。聖ニコライがついに見ることのなかった念願の聖堂で、私たちは当たり前のように読み、歌い、祈る。聖ニコライは、「それで良いのだよ」と言うだろう。しかし、私たちは感謝の気持ちを忘れてはならないと思う。

 

 

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