函館ハリストス正教会

聖ニコライからセルギイ主教へ

聖ニコライ(1836~1912)

聖ニコライ(1836~1912)

府主教セルギイ(チホミーロフ)(1871~1945)

府主教セルギイ(チホミーロフ)(1871~1945)

 

 ロシア正教会聖務院は、聖ニコライの後継者として、主教セルギイ(チホミーロフ)を「日本の主教」に任命した。

 セルギイ主教は来日前、サンクトペテルブルク神学アカデミー校長の要職にあった。1908年6月に来日してからは、宣教団の一員となって日本各地の教会を巡回し、よく聖ニコライを補佐した。

 函館の二代目聖堂の建築は、セルギイ主教の祝福と配慮の元で進められ、セルギイ主教によって成聖されることとなる。

 1910(明治43)年5月に函館正教会及び有川正教会を巡回したセルギイ主教は、東京に戻ってから、彼の地の信徒たちに次のように述べている。

 

 「…実に北海道は伝道するに甚だ好い所であります。現今の所では若し内地の教会が眠って仕まっても北海道丈けの信徒が残れば日本正教会は優に立つことが出来ます。勿論北海道以外にも好い地は沢山あります。また敬虔な熱心な方々も多くありますので誠に結構なことであります、けれども殊に北海道は好い地であります。… … 来年大主教の五十年記念の祝典を挙げ日本の大臣及び在京の重なる政治家宗教家、実業家其他あらゆる階級の人々を招待し盛に祝はうと申されました、勿論これは甚だ結構な事であり、本会の聖堂の内部も余程廣いので多くの人々を招待して充分に盛に行ふ事が出来ます。されど来年本会でかく盛に喜び祝ひ楽しんでいる者の中誰か函館の教会へ行き聖堂の焼墟を見たなれば其時歓喜の情は忽ち失せて不快になるに相違ありません。私は函館に参り教会の焼墟を視ましたがその光景は実に眼もあてられぬほど惨憺たる者でありました、其時私は一種言う可からざる印象を受け最も痛切な感に打たれ想はず涙をこぼしました、何処を見ても元の形状は消え失せて唯彼方此方に破壊れた焼墟の煉瓦が散らばり、また元青々して居た樹木は皆焼けてふとい株が小さくなって残って居ました勿論雑草は茫々と生へ茂って居ります、併し草は年々歳々はえるもので今年火事に遭っても翌年芽を萌くものであります、元聖堂のあった墟に宝座が小さな丘の様になって淋しげに立って居ました、斯の様な有様で誰が眼にも此れが函館の教会であるとは見えませぬ、一体函館教会は日本正教会のウィフレエムであります、日本正教会の伝道は此の地から始まったのであります、それ故函館教会は日本正教会の揺籃ウィフレエムであります、此の我等の尊ぶべきウィフレエムの教会が現在の悲惨な有様であるとは如何に悲しむべき事柄ではありません。、(満場一時暗雲に覆はれ弁士又両眼に涙を湛う)、なる程函館は小さな聖堂と狭い教役者の長屋があります。けれども此れが日本のウィフレエムの聖堂としては実にはづべき次第であります、と申して今此処に立派な聖堂を立てるのには少なくとも三萬圓の金が入用であります、加ふるに現在の日本正教会にはその余裕がありません、それで私は今度ロシアに帰ってその建築費を募集する積もりであります。

 さて私は今度大阪の公会後一寸東京に帰り身体を休めて後シベリヤの極東宣教師大会に出席します、今年ロシアでは囘囘教徒に正教を伝道するものと、異教徒に正教を伝道をするものとのの大会が御座います、前者はカザンに於いて開かれ後者は8月6日からイルクーツク市に於いて開かれ主に支那朝鮮日本から集まりますが私は日本教会の代表者として参ります、そして出来得る限り日本教会の為めに全力を盡くして有益なる事をはかる考えであります、其後私は一寸自分の故郷へ帰ります、その故郷には未だ私の両親もあれば兄も妹もあります、其れで其の人々と逢いましてさらにペテルブルク、モスクワにも参りまして函館教会の建築費の募集をします、此時もし三萬圓出来たならば喜び勇んで帰りますが、不幸にして三萬圓に満たなかった時は肩を窄めて小さくなって帰ります(聴衆笑ふ)、皆様これは私の力でするのではありません、皆大主教の力を借りてするのであります、御存じの通り月は太陽の光線の反映によって光ります、今私も大主教と云う太陽の光をかりて此の目的を遂げる積りであります…」

主教時代のセルギイ 1909年の北海道・サハリン巡回の折、小樽でイグナティ高久伝教者に贈った写真

主教時代のセルギイ 1909年の北海道・サハリン巡回の折、小樽でイグナティ高久伝教者に贈った写真

 

 この演説からも分かるように、セルギイ主教もニコライ大主教を援け、函館の聖堂再建のために一生懸命である。

 ちなみに、アナスタシヤ・シネリニコワ姉に聖堂再建寄進のお願いの手紙を書くこと薦めたのは、セルギイ主教だった。聖ニコライは、1909(明治42)年11月9日の日記に次のように書いている。

 

 「セルギイ主教は、わたしから彼女に『温かい手紙』を書くよう勧めたうえで、彼女が『ペテルブルクの裕福な地主で、たくさんの寄附をしてくれる』ことを補足している。それを読んで、彼女に函館の教会建設について頼んでみようという考えが浮かんだ」。

 聖ニコライ永眠後、聖堂建築が実際に着工に向って動き始めるのは、1914(大正3)年のことだった。

 

 

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