函館ハリストス正教会

アナスタシヤ・シネリニコワ姉

 アナスタシヤ・シネリニコワ姉について私たちが具体的に知るところは少ない。本来ならば、ここに写真の一枚、肖像画の一枚も掲載したいところであるが、それすら私たちの手元にはないのである。

 日本正教会でシネリニコワ姉に会ったことがあるのは、パウェル森田亮神父、そして他に可能性があるとすればセルギイ府主教だけではないだろうか。

 1914(大正3)年10月23日、当時東京四谷正教会を管轄していたパウェル森田亮神父は、赤十字社の依嘱で、救護班の通訳の任を受け、また正教会司祭の身ともなれば単に通訳に止まらず、ロシア傷病兵の宗教的慰問の役目も果たすべく、ロシアに赴いた。1916(大正5)年7月までペトログラードに滞在した。

 森田神父による「露都通信」(「正教時報」第5巻第2号所収)には、シネリニコワ姉について記されており、要約すると下記のような内容である。

 

 この篤志家 —– 日本正教会の同情者たるアナスタシヤ・ペトロヴナ・シネリニコワ老夫人の日常につきて少し書きましょう。

 シネリニコワ姉は、ふっくらとした童顔で背は低く、年齢は78歳とか。動きはふらふらとして衰弱を訴えておられますが、精神的には驚くほど明確で、財務の処理に至っては判断力もあり緻密・正確です。ご自分のことは平素より質素で、身辺を飾らず、今でも電灯を使わずに、横に取っ手がついているごく粗末なランプを使っておられます。飲食衣服も質素ですが、慈善の事となると、これまで随分多方面に巨額の金を投じて、それを独り心の喜びとしておられます。そのために詐欺にかかったこともあり、奇談も少なからずあるようです。そのためか、最近は基金などと名がつくものには一切献金を断り、そればかりか基金を積むことなど盗賊を作る方法に過ぎないと激語しておられます。しかし、何か現実の事に活用する向きには、喜んで寄付を承諾され、既に今でもその広い所有地の一角を割いて大聖堂を建て、教会用の建物を建てるなどの大事業を殆ど独力で運営しておられます。全財産はどのくらいかと聞きもしませんので、判りません。

 若い時に夫と別居し、二、三の召使いを雇って今に至るのですが、万事を独力にて処理されている女丈夫です。

 シネリニコワ姉は、故ニコライ大主教を非常に尊崇敬慕されており、その写真を沢山収集しています。また、他人にもニコライ大主教のことを語ることを、無常の慰めとしておられます。シネリニコワ姉は、ロシア語で書かれたニコライ大主教の伝記を渇望しておられますので、何とかしてその希望に沿いたいと思うのですが、今のところ激務ゆえ、その暇もありません。日本の我が同労諸君の配慮を乞わざるをえません。…」。

パウェル森田亮神父

パウェル森田亮神父

 

 パウェル森田神父は、函館を訪問した際、婦人会に請われてシネリニコワ姉について語っているのだが、その内容については、記述されたものが残っていない。

 この「露都通信」からもうかがえるが、シネリニコワ姉は、心より聖ニコライを尊崇敬慕していた。一度も会ったことがなくても、聖ニコライの頼みとあれば、20,000ルーブル(20,000ルーブルは、当時の約20,000円)もの大金を寄付した。そしてこの寄付は、「函館聖堂再建のため」という用途指定献金であった。

 実は、シネリニコワ姉による日本正教会のための献金は、これに止まらない。ロシア人俘虜(日露戦争)のろうそく代として500ルーブル、日本の神学生のロシア留学援助の目的で10,000ルーブル、函館聖堂再建のために別に1,000ルーブルなどがある。

 1916(大正5)年8月16日 —– アナスタシヤ・シネリニコワ姉の永眠日である。函館聖堂成聖式の二か月前であった。「正教時報」(第5巻18号)は、次のように報じている。

 

 ◎シネリニコワ姉永眠

 我が日本正教会の同情者として我が教会にもその名を知られ幾度か多額の寄付献金をせられ、現に近々成聖式を挙行せらるる函館正教会新築聖堂の為に、莫大の寄付金をせられたるシネリニコワ老姉は8月16日病気にて永眠せられたり。聖堂成聖式執行の吉報を同姉に伝えてその喜びを共にするを得ざりしは、実に遺憾の極みなり。

 

 函館聖堂成聖式の日、参祷者たちは函館正教会に関係のある教役者のため、また殊にシネリニコワ姉のために、永遠の記憶を歌いつつ式を終えた。

 

 

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