函館ハリストス正教会

聖堂設計図

 国の重要文化財に指定されている現在の函館復活聖堂であるが、白い漆喰の壁と緑青の屋根が美しく、八端十字架を頂く5個のクーポルがロシアらしい雰囲気を醸し出しているのが特徴である。

 この設計図は、もともと何処から出ているのだろうか。

 聖ニコライの日記には、この設計図に関する記述がある。

 

1908(明治41)年1月21日(月)

 函館のアンドレイ目時神父から手紙がきた。 …… 教会再建の計画については、こちらから図面集を送り、好みと建設用の予定募金額によって選択するよう伝えた。

 

 この記述から、「図面集」の存在が分かっていたが、それが如何なるもので、そこに何が書いてあるのか・・・知る由もなかった。

 ところが2011(平成23)年6月、仙台のセラフィム大主教座下より函館正教会に一通のメールが入った。

「・・・・・・聖堂の図面集を見つけました。・・・・・・すでにこちらでは本1冊分をダウンロードしました。松山聖堂のモデルとなったNo.21を見ると元の図面に手を加えたことがすぐわかります。この本には函館の聖堂そのものの図面はありませんが、2つの図面の鐘楼部と本堂を切り取って2つをつなぐと函館と全く同じものになるものがあります。窓などのデザインはほぼ同じです。本堂部の図面を添付しますので見てください。若干の違いはあるものの、ほぼこれを参考にしたことは間違いありません。これに鐘楼部をつけると今の函館聖堂になります。尚、この本の出版は1899年ですのでこれ以降の日本の教会で河村伊蔵が設計したと言われているものの原型がほぼ載っているようです。まだ詳しくつき合わせておりませんが、これは非常に重大な発見になります。・・・」。

 

聖所部分図面No28

聖所部分図面No28

鐘楼部分図面No.24

鐘楼部分図面No.24

聖所部分と鐘楼部分を繋ぎ合わせると函館聖堂となる

聖所部分と鐘楼部分を繋ぎ合わせると函館聖堂となる

 

 

 セラフィム大主教座下は、図面集(『教会設計図及びイコノスタス、会堂図面集』聖シノド発行、モスクワ1899)のNo.28の聖所部分とNo.24の鐘楼部分を繋ぎ会わせると函館の現聖堂となることを見つけられたのである。

 実は、丁度この図面集の発見の少し前、ベラルーシの新聞記者から函館正教会に問合せのメールが入っていた。

 「ベラルーシに函館の聖堂の“双子聖堂”がありますが、どうしてこうなったのか分かりますか?」とのこと。

 この図面集の発見によって、「どうしてこうなったのか」明らかになったわけだ。つまり、彼の地でも此の地でも、この図面集の「No.28」を選んだからである。 他にも、大阪正教会の聖堂の場合、建設に至る経緯を聖ニコライの日記の中で辿って行くと、図面のNo.19 であると明記してある(聖ニコライの日記、1908 年9 月12 日付)。

 京都正教会聖堂、松山正教会聖堂、豊橋正教会聖堂など、当時の主だった聖堂の建設図面は、この図面集を依り所としていた

 この図面集の編纂者は、コンスタンチン・トーンという建築家である。彼がロシア正教会聖宗務院の依頼によって最初の「聖堂図面見本集」を編纂したのは1836年だった。その図面見本集に収録されている聖堂は、200人~1500人程度の参祷者が収容できるもので、地方の平均的な聖堂向けであった。図面見本集編纂の目的は、「ロシア帝国全土に建設されていく聖堂のフォームとスタイルが、然るべき形で維持されるため」であった。

 当時ロシアは、まさしくウラル山脈を越え、シベリヤを東へ、東へと勢力を伸ばしている最中であった。新しくロシア帝国に組込まれた土地に、次々と正教会聖堂が建てられていった。しかし、正教会聖堂を見たこともない土地の大工が、正教会聖堂を建てるのは難しい。その時に、このカタログのような「聖堂図面見本集」があれば、話は早い。石造にするのか木造にするのか、収容人員はどれほどなのか決まれば、あとは図面集の中のナンバーを指さすだけである。

 シベリヤの優れた宣教者、聖インノケンティ(ベニアミノフ)の書簡集を見ると、彼もこの図面集を活用したと思われる節がある。

 

 

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